3月11日 続きです。
大震災の翌年2012年の3月11日、私は陸前高田市のある場所で開かれた追悼式に参加しました。大震災から1年目、津波の傷跡がいたるところに残っていいました。寒い寒い1日でした。被災された住民の方たち、そしてたくさんのボランティアの方たち、行政の方たち等が津波に飲み込まれた集落を見下ろせる高台に集まり、追悼式を行ったのです。大震災が発生した時刻、サイレンの音ともに参加者全員が手をつなぎ、黙とうしました。あちこちからすすり泣きの声が聞こえ、私も映像で見たあの凄まじい光景が頭の中にフラッシュバックしてきて、嗚咽が止まりませんでした。
あれから5年、2017年3月11日 午後2時15分より南相馬市民文化会館で「南相馬市東日本大震災追悼式」が開催されました。私たち10人も追悼式に参加しました。
桜井南相馬市長の式辞の後。映像による国主催の追悼式が中継されました。
安倍首相の式辞の中に、福島原発事故のことが全く触れられなかったこと、そして追悼の辞や遺族代表の言葉は男性のみで、女性が一人もいなかったことも強く印象に残りました。
震災から6年、追悼行事が形式的なってきていると思えたのは私だけでなかったようです。翌日の福島民報にもそんな記事がのっていました。
夕方近づいてきましたが、今日は強行軍です。今、全村が避難している飯館村に向かいました。
飯館村へ行くには途中山の中を走ります。
こうした山の中のを通る道は道路から20mは徐線がされなければならないとされています。しかし、20mから先は全く除染がされていません。雨が降れば除染した箇所もすぐに汚染されてしまいます。山中に入っていくと放射線量がぐんぐん上がっていきました。
飯舘村は福島第一原発から約40キロメートルの地点に位置する、農業や畜産業を中心にした村で、事故前には約6000人が住んでいた。原発の補助金は出ていません。事故発生後、すぐには避難指示が出なかったが、原発の爆発で撒き散らされた放射性物質が強い風に乗り大量に浴びました。
飯館村に入ると、いたるところに放射能汚染物質を入れているプレコンパックの保管場所が現れました。このプレコンパックの耐用年数は5〜7年といわれています。所々破れ、雑草が生えているのも見受けられました。
飯館村で牛を飼育していた酪農家・長谷川さん宅を見せてもらいました。今は避難してここには居住していません。家のすぐ前にプレコンパックの山。近づくと放射線量がぐっと上昇しました。田畑は除染されていても、山は除染ができないため、雨が降ればま流れ出た水で放射能汚染されてしまうため、農作物の栽培は不可能だと言われています。
プレコンパックから見た長谷川さん宅。避難が解除されても戻れますか。
飯館村の田畑にはいたるところにプレコンパックと大々的ななソーラ発電施設が設置されていました。
飯館村役場です。3月31日の期間に向けての準備が行われています。
役場の近くに老人介護施設があります。ここの入所者は避難しないでここにとどまりました。介護職員は飯館村の外から毎日通っています。
飯館村の中心部、今は全く人が住んでいませんが、大規模な公共施設の建設が続いています。避難が解除されてもどれだけの住民が帰還するのわからない中、無駄な投資にならないかとの批判もされているようです。