3月12日・続きです。
浪江町請戸地区から希望牧場に向かいました。
途中、帰還困難区域への通行止めの箇所が現れました。帰還困難区域はガードレールの下の茶色のブロックが目印となります。
希望の牧場
浪江町には「希望の牧場」と名付けられた牧場があります。ここでは被爆によって市場に出荷できない牛300頭余を飼育し続けています。
私たちは希望の牧場を訪れました。
牧場主の吉沢さんは不在でしたが、ボランティアでジャーナリストの針ヶ谷さんが牛の世話をしていました。
広大な牧場にはあちこちに牛が点在していました。針ヶ谷さんがトラクターで大きな餌の塊を置いていくと牛たちがゆっくりと近づいて来て餌を食べ始めました。
希望の牧場は除染をしましたが、今日の線量は1ミリシーベルトを計測しました。震災時は20〜30ミリシーベルト
もあったそうです。除染した土などは糞と共にプレコンパックに詰めて高く積んでありました。
帰還困難区域に指定された地域で牛の世話をし続ける吉沢さんを3年間取材し続けた畠山理仁さんのルポルタージュをお読みください。
東京電力福島第一原子力発電所から北北西に14キロ。福島県双葉郡浪江町には、原発事故によって設定された旧警戒区域(原発から20km圏内)に取り残された牛を生かし続ける牧場がある。
「希望の牧場」――。そう名付けられた牧場では、被曝によって決して市場に出荷されることがなくなった牛たち300頭以上が今も命をつないでいる。
私が南相馬市小高区と浪江町の境目に位置するこの牧場を初めて訪ねたのは2011年12月のことだ。寒い冬の早朝、牛舎で牛たちの世話をしながら牧場の主である吉沢正巳(60歳)はこう言った。
「あの原発事故でおれたちの浪江町は『日本のチェルノブイリ』のようになってしまったんだ。もう二度と浪江町には帰れないかもしれないと思った。『希望』という名前はそんな深い絶望の中でつけたんだ」
絶望の中にあるのに、なぜ「希望」なのか。その問いかけに吉沢はこう答えた。
「誰もいなくなった絶望の町でも、ここの牛たちだけは元気に生き続けている。それこそが希望なんだ。それからもう一つ。世の中の人たちに対して『あなたにとっての希望ってなに?』と問いかけたい気持ち、考えてほしい気持ちもあったんだ」
「希望の牧場」――。そう名付けられた牧場では、被曝によって決して市場に出荷されることがなくなった牛たち300頭以上が今も命をつないでいる。
私が南相馬市小高区と浪江町の境目に位置するこの牧場を初めて訪ねたのは2011年12月のことだ。寒い冬の早朝、牛舎で牛たちの世話をしながら牧場の主である吉沢正巳(60歳)はこう言った。
「あの原発事故でおれたちの浪江町は『日本のチェルノブイリ』のようになってしまったんだ。もう二度と浪江町には帰れないかもしれないと思った。『希望』という名前はそんな深い絶望の中でつけたんだ」
絶望の中にあるのに、なぜ「希望」なのか。その問いかけに吉沢はこう答えた。
「誰もいなくなった絶望の町でも、ここの牛たちだけは元気に生き続けている。それこそが希望なんだ。それからもう一つ。世の中の人たちに対して『あなたにとっての希望ってなに?』と問いかけたい気持ち、考えてほしい気持ちもあったんだ」
希望の牧場・吉沢正巳の訴え(前編)
希望の牧場・吉沢正巳の訴え(後編)