2021年03月09日

福島原発事故から10年 これが復興か 福島の今・・・その5 希望の牧場

2011年3月11日で福島原発事故が10年を迎えます。
2017年4月私は仲間とともに原発事故自治体を訪れ、ブログに記録しました。
先日、テレビでこの牧場の今を放映していました。
原発事故で住めなくなった牧場主はやむなく牛を残して避難せざるを得ませんでした。たくさんの牛が餓死しました。しかし、生き残った牛が希望の牧場で保護され今も生きています。牧場主が自分の牛を見つけました。呼びかけるとの牛が近寄ってきたのです。10年も前の飼い主を覚えていたのです。希望の牧場では今もたくさんの牛が飼われています。
希望の牧場とはどのような牧場でしょうか。

2017年04月09日
これが復興か 福島の今・・・その5 希望の牧場

浪江町には「希望の牧場」と名付けられた牧場があります。ここでは被爆によって市場に出荷できない牛300頭余を飼育し続けています。
私たちは希望の牧場を訪れました。
牧場主の吉沢さんは不在でしたが、ボランティアでジャーナリストの針ヶ谷さんが牛の世話をしていました。

広大な牧場にはあちこちに牛が点在していました。針ヶ谷さんがトラクターで大きな餌の塊を置いていくと牛たちがゆっくりと近づいて来て餌を食べ始めました。
希望の牧場は除染をしましたが、今日の線量は1ミリシーベルトを計測しました。震災時は20〜30ミリシーベルトもあったそうです。除染した土などは糞と共にプレコンパックに詰めて高く積んでありました。

http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448845338.html?1615251102

希望の牧場・ふくしま=福島県浪江町周辺
被災地に残された命をつなぐ


東日本大震災の翌日、福島第一原発1号機の建屋が爆発し、避難指示の範囲がそれまでの原発3km圏内から20km圏内に拡大した。その後も、原発の建屋が次々と爆発。騒然とするなかで、住民は取るものも取りあえず避難を急ぐしかなく、すぐに町は無人となった。

 エム牧場浪江農場は、原発から14kmの距離にある。その農場長であった吉沢正巳さんは、ホームセンターで買い物中に被災した。渋滞を避けながらなんとか牧場に帰りつくが、施設の一部は潰れ、牧草地は地割れを起こしていたという。それでも停電の中、発電器を回して牛に水を飲ませた。そして、カーナビのテレビからの情報で、福島第一原発の様子が変だということを知る。吉沢さんの牧場からは、遠くに原発の排気塔が見える。

 「それでも牛を残して逃げる気はまったくなかったね。実際、逃げ出すほど怖いとは感じなかった。原発の中での作業はまさに決死隊だっただろうけど、ここなら影響はあっても、すぐに死ぬことはないなと思ってた」と吉沢さんは言う。建屋が爆発し、牧場に緊急の通信施設を置いた警察が避難した後も、吉沢さんは牧場に残り牛の面倒を見続けた。

http://jafmate.jp/jmp/311/iidate_namie/001.html
posted by イズノスケ at 01:00| Comment(0) | 東日本大震災 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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