コンパクトシティ、聞いたことがありますね。
伊豆市の街づくりの基本構想が「コンパシティ」構想です。
伊豆市を修善寺駅前周辺1km、中伊豆地区、天城地区の中心地区に公共施設や住居を集中する構想です。
すでに修善寺駅周辺1kmには、新中学校や広大な防災公園が建設中であり、周辺には修善寺こども園もすでに開設されており、伊豆市役所などの公共施設と一体化した街づくりが進行中です。また伊豆箱根鉄道牧の郷駅前の整備や周辺の宅地開発が行われています。
巨額な公共投資を使って進行中の伊豆市版「コンパクトシティ」構想が伊豆市の将来にとって、衰退を止め、活性化していく切り札になりうるのか。それは今後5年後、10年後の伊豆市を見なければ判断はできません。
30年前から政府の大号令の下に始まったコンパクトシティ構想は成功例がいまだかってないという実例を毎日新聞では報じています。
毎日新聞 2023/9/20
商業施設や住宅を中心部に集約させる「コンパクトシティー」構想は、疲弊する地方都市の「切り札」として、約30年間にわたり期待されてきた。だが、いまだに明確な成功事例を築くことができていない。実際に街を歩き、「失敗の本質」を探った。
色とりどりの洋服やユニークな雑貨が並んでいたテナントスペースは消え、職員が淡々と市民に応対する窓口になっていた――。
私は2011〜17年、初任地の青森支局で勤務した。今年8月10日、JR青森駅の目の前にある地上9階建ての大型ビル「アウガ」を6年ぶりに訪ねると、若者たちでにぎわった商業ビルは、無機質な市役所にリニューアルされていた。
アウガは01年にオープン。市場、商業施設、市立図書館などを入れた官民複合の再開発ビルで「コンパクトシティー」構想の目玉と期待された。だが、慢性的な赤字経営が続き、200億円以上の公金を投じながら16年に経営破綻した。
16年ごろ、青森市が窓口機能移転を提案した際に打ち出したのが「新たなにぎわいの創出」だった。ところが、祝日の8月11日に再びアウガを訪ねると、窓口は網をかけて閉ざされ、灼熱(しゃくねつ)の太陽の下、無人の役所からきびすを返す人の姿が時折見られるばかりだった。周辺を歩くと、テナント募集の紙が張られた「シャッター通り」が広がっていた。
コンパクトシティー構想は1970年代に米国で始まり、日本でもバブル崩壊後の90年代に議論された。98年には「中心市街地活性化法」が制定され、自治体の中心市街地活性化(中活)基本計画が国から認定されれば、中心部の再開発などで補助金が受けられるようになった。
89年から約20年間、青森市長を務めた佐々木誠造氏(90)は99年、商業施設などを中心市街地に集めてその周辺を居住エリアにし、郊外は開発を制限して八甲田山系の自然を保護するという3層に分けた都市計画を策定した。狙いは、郊外開発制限による除排雪の負担軽減だった。
当時、佐々木氏は建設省(現国土交通省)などの官僚に都市計画について説明を求められ、霞が関に何度も足を運んだ。「首相官邸で説明するから教えてほしいと請われたこともあった。それほど国は青森の計画に関心を持っていた」
だが、コンパクトシティーの意味合いは次第に変容する。郊外開発の制限や居住地の集約という概念は薄れ、中心市街地をどうにぎわせるかの議論に偏っていく。佐々木氏は「街の真ん中さえ栄えればよいと誤解する市町村がいっぱい出てきた」と振り返る。
青森市の中活基本計画は07年、富山市と共に全国で初めて国に認定される。アウガ周辺の歩行者交通量や小売業の商品販売額などの指標について、基本計画の進捗(しんちょく)を国が年度ごとにチェックした。
青森市で経済部門を担当し、副市長も歴任した佐々木淳一氏(69)は「当時から、国が一律の指標を定め、計画を管理するのはおかしいと思っていた」と明かす。だが、「制度に加わった自分たちも毎年、成果をアピールしないと次はない。だから目先の成果が出やすいハコモノにとらわれすぎた」
青森市は07〜17年の10年間、国の支援を受けて中心市街地の整備を進めたが、基本計画で設定した交通量や商品販売額などの目標値を達成できなかった。【宮城裕也】
■ことば
コンパクトシティー
人口減・高齢化に対応するため、都市機能や居住地域を市街地に集めた集約型の都市形態。都市郊外における無秩序な市街化を抑制し、公共施設や病院、宅地などをまとめることで中心街の活性化、行政サービスの効率化、財政支出の縮減などを目指す。
2023年09月20日
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