先回のこのブログで総選挙の感想を述べました。
その中で、政治に不満を持った国民は時によって極端な政治勢力に向かう可能性があると書きました。
12月19日・毎日新聞コラム「金言」に興味深い記事が掲載されて今いたので紹介いたします。
このコラムを書いた西川氏は「最右翼に振れぬ日本」と今回の選挙を分析しています。
今回の総選挙では共産党が批判勢力として躍進(8から21議席)したが、これは「自民党より右」を標ぼうした次世代の党の壊滅的敗北( 20から2議席)とセットで見るべきだろう。
民主党など主要野党が十分な反自民の受け皿となれないなか、最左翼の共産党の伸びは予想された。しかし最右翼の次世代の党にも私は注目していた。日本社会の右シフトが言われるなか、自民党より右が確固とした一塊の政党として、民族主義的な過激な主張を掲げて選挙を争う初のケース。加えて欧州諸国では左翼に代わり極右政党が政権ヘの批判・不満層の受け皿になっている事実がある。
欧州では共産党は一部の国で細々と続くが、多くが解党・分裂した。かつての左翼支持の労働者、若者らはそうした左翼に幻滅し、保守政党を飛び越えて極右政党に投票している。5月の欧州議会選挙で、英、仏、デンマークの極右政党が国内第1党になったことは記憶に新しい。
全文は以下をクリックしてください。
最右翼に振れぬ日本.pdf
2014年12月20日
2014年09月24日
修禅寺山門に「見張り番」
9月23日・伊豆日日新聞「記者コラム」に修禅寺山門の改築完成の記事が出ていました。
老朽化に伴い150年ぶりの修復工事が行われていた修禅寺の山門が完成し、きょう落成式が行われる。左右に仁王堂が新設され、一足早く仁王像2体が収められた。
ご存知の通り、この仁王像は、北条政子が長男・頼家の冥福を祈って建立した指月殿に長く安置されていたもの。修禅寺は昔、広大な寺領を有し、寺から3キロ以上離れた横瀬に総門があった。ここで仁王像は侵入する魔や災厄から仏と寺、信者を守るためにらみをきかせていた。いつのころか、総門がなくなり、横瀬の八幡神社にしばらく保存された後、明治初めの廃仏毀釈で指月殿に移った、と伝わる。
仁王像はその役割から直接外気に触れ、風や湿度、虫害にさらされ、何百年も残るのは難しいといわれる。ところが、この仁王像は、全国でもまれな平安後期の作品。頼家の悲劇も、その目で見てきたに違いない。数奇な運命をたどり、千年の風雪を耐え、いま再び脚洸を浴びることになった。
早速見てきました。お寺の山門の両脇には仁王堂が新設され仁王像2体がに睨みをきかせていました。
指月殿に安置されていた時にも見たことはありますが、立派な仁王堂に安置され、これからも風月に耐え修禅寺に出入りする人の「見張り」をしていってくれるのでしょう。
修禅寺境内にはいろんな石仏が安置されています。
弘法大志像
老朽化に伴い150年ぶりの修復工事が行われていた修禅寺の山門が完成し、きょう落成式が行われる。左右に仁王堂が新設され、一足早く仁王像2体が収められた。
ご存知の通り、この仁王像は、北条政子が長男・頼家の冥福を祈って建立した指月殿に長く安置されていたもの。修禅寺は昔、広大な寺領を有し、寺から3キロ以上離れた横瀬に総門があった。ここで仁王像は侵入する魔や災厄から仏と寺、信者を守るためにらみをきかせていた。いつのころか、総門がなくなり、横瀬の八幡神社にしばらく保存された後、明治初めの廃仏毀釈で指月殿に移った、と伝わる。
仁王像はその役割から直接外気に触れ、風や湿度、虫害にさらされ、何百年も残るのは難しいといわれる。ところが、この仁王像は、全国でもまれな平安後期の作品。頼家の悲劇も、その目で見てきたに違いない。数奇な運命をたどり、千年の風雪を耐え、いま再び脚洸を浴びることになった。
早速見てきました。お寺の山門の両脇には仁王堂が新設され仁王像2体がに睨みをきかせていました。
指月殿に安置されていた時にも見たことはありますが、立派な仁王堂に安置され、これからも風月に耐え修禅寺に出入りする人の「見張り」をしていってくれるのでしょう。
修禅寺境内にはいろんな石仏が安置されています。
弘法大志像
2014年09月11日
北海道登山 その2 十勝岳
北海道登山2回目は十勝岳登山です。
白金温泉に宿泊し早朝登山口のあり望岳台へ。望岳台からの展望は晴れていれば美瑛岳から富良野岳までの連峰を見渡すことができるので観光客も多いようですが、今日もお山は霧の中。
望岳台からの広い登山道は火山特有のゴロゴロの火山礫に覆われていますが、ゆったりした登山道は歩きにくくはありません。
途中、美瑛岳方面への登山道がわかれます。
1時間ほど歩くと十勝岳避難小屋につきます。きれいな小屋ですが、トイレや水はありません。
小屋からはロープ沿いに進むと前十勝岳への登山道がありますが現在は登山禁止となっています。
それからはガレた急な登山道が続きますペンキマークを外れないように登っていきます。ここまで来ると周りは木々や草花は一切ありません。ガレた火山礫だけです。
霧が深くなってきました。周りは何も見えません。
昭和火口を通過しガレ場を登りきると十勝岳直下まで火山灰のサラサラした平坦な台地が続きますが、霧の為全く周りは見えません。踏み跡とペンキの目印を頼りに進みます。
十勝岳直下に近づくとようやく霧が晴れてきました。雲海を突き抜けたようです。突風が霧か雲を吹き飛ばし時折十勝岳が見えてきました。
十勝岳直下から十勝岳までの稜線は灰色の不気味な登山道で急登の上滑りやすい。
稜線を登るにつれて冷たい突風が吹き荒れてきました。両手がジンジン痛んでくるほどの冷たい風です。油断していると吹き飛ばされそうな強風を体を低くして登りきると十勝岳山頂です。
十勝岳山頂からは360度の眺望が開けていました。十勝岳から美瑛岳に至る火山砂礫の広い稜線の先には美瑛岳がそびえたっています。
突風を避け岩陰に隠れ山頂からの眺望を楽しみました。たくさんの登山者との楽しい語らいもできました。これぞ登山の醍醐味です。
下山開始です。突風の稜線を下りきると、平坦な稜線は風も穏やかになり快適な下山となりました。振り返ると十勝岳や美瑛岳が刻々とその姿を変えていきます。周りの火山砂礫に覆われた草木が全くない台地を眺めると日本では今まで経験したことのない感動に包まれました。北アルプスで得られる感動とは違ったものです。
「十勝岳はつまらん山だよ、美瑛岳に登りなさい」と大雪山で教えてくれた方もいましたが、さすが百名山。変更しなくて正解でした。
稜線を名残惜しげに振り帰り、振り返り通過、ガレた下山道に差しかかると霧が出てきました。ここから先は登ってきた時と一緒ですべて霧の中の下山。望岳台は霧が晴れていましたが十勝岳も美瑛岳も山頂まで深い雲の中。私たちの登っていた時間だけ晴れてくれたようです。ラッキーな1日でした。
白金温泉に宿泊し早朝登山口のあり望岳台へ。望岳台からの展望は晴れていれば美瑛岳から富良野岳までの連峰を見渡すことができるので観光客も多いようですが、今日もお山は霧の中。
望岳台からの広い登山道は火山特有のゴロゴロの火山礫に覆われていますが、ゆったりした登山道は歩きにくくはありません。
途中、美瑛岳方面への登山道がわかれます。
1時間ほど歩くと十勝岳避難小屋につきます。きれいな小屋ですが、トイレや水はありません。
小屋からはロープ沿いに進むと前十勝岳への登山道がありますが現在は登山禁止となっています。
それからはガレた急な登山道が続きますペンキマークを外れないように登っていきます。ここまで来ると周りは木々や草花は一切ありません。ガレた火山礫だけです。
霧が深くなってきました。周りは何も見えません。
昭和火口を通過しガレ場を登りきると十勝岳直下まで火山灰のサラサラした平坦な台地が続きますが、霧の為全く周りは見えません。踏み跡とペンキの目印を頼りに進みます。
十勝岳直下に近づくとようやく霧が晴れてきました。雲海を突き抜けたようです。突風が霧か雲を吹き飛ばし時折十勝岳が見えてきました。
十勝岳直下から十勝岳までの稜線は灰色の不気味な登山道で急登の上滑りやすい。
稜線を登るにつれて冷たい突風が吹き荒れてきました。両手がジンジン痛んでくるほどの冷たい風です。油断していると吹き飛ばされそうな強風を体を低くして登りきると十勝岳山頂です。
十勝岳山頂からは360度の眺望が開けていました。十勝岳から美瑛岳に至る火山砂礫の広い稜線の先には美瑛岳がそびえたっています。
突風を避け岩陰に隠れ山頂からの眺望を楽しみました。たくさんの登山者との楽しい語らいもできました。これぞ登山の醍醐味です。
下山開始です。突風の稜線を下りきると、平坦な稜線は風も穏やかになり快適な下山となりました。振り返ると十勝岳や美瑛岳が刻々とその姿を変えていきます。周りの火山砂礫に覆われた草木が全くない台地を眺めると日本では今まで経験したことのない感動に包まれました。北アルプスで得られる感動とは違ったものです。
「十勝岳はつまらん山だよ、美瑛岳に登りなさい」と大雪山で教えてくれた方もいましたが、さすが百名山。変更しなくて正解でした。
稜線を名残惜しげに振り帰り、振り返り通過、ガレた下山道に差しかかると霧が出てきました。ここから先は登ってきた時と一緒ですべて霧の中の下山。望岳台は霧が晴れていましたが十勝岳も美瑛岳も山頂まで深い雲の中。私たちの登っていた時間だけ晴れてくれたようです。ラッキーな1日でした。
2014年02月19日
なにを壊され、なにを奪われ、なにを背負わされたのか 『人間なき復興』著者・市村高志氏インタビュー
私はBLOGOSというインターネットサイトをよく読みます。BLOGOSとはどのようなサイトでしょうか。
BLOGOSでは、ブログを「日記」ではなく「意思表明の場」と捉える政治家、「本音」を語れる研究者、法曹、医師、官僚、会社員など、多種多様な書き手が情報を発信しています。インターネットですから、もちろん「紙面の限界」はありません。ノーカットで余さず伝え、読み手と書き手をつなげます。
福島原発事故から3年たとうとし、今もなお10万人以上の人が避難生活を続けています。原発避難をめぐり何が起こっているのか。興味深い記事ですので、紹介させていただきます。
なにを壊され、なにを奪われ、なにを背負わされたのか 『人間なき復興』著者・市村高志氏インタビュー
福島第一原発事故から3年が経とうとし、今もなお10万人以上が避難生活を続けている。今、原発避難をめぐり何が起こっているのか。社会学者と被災当事者の21時間にも及ぶ議論を基に、『人間なき復興』(明石書店)が昨年11月に上梓された。今回は、共著者の一人で、被災当事者である市村高志氏に話を伺った。(聞き手・構成/山本菜々子)
帰りたいけど帰れない
―― 市村さんは震災以前どのような生活をされていたのでしょうか。
震災が来るまで、私は福島県富岡町でパソコンの修理や業務システムの構築、生損保の保険代理店などの仕事をしていました。震災当時、中学生の子どもが2人と小学生が1人。私の年老いた母とも同居して6人家族で暮らしていました。3月11日はちょうど長女の中学校の卒業式でした。地震が起きた時は帰宅途中で、ちょうど買い物に立ちよった店の駐車場にいました。
そして、私達は訳も分からず「着の身着のまま」避難しました。私達だけではなく大半の住民が一週間や、長くても1カ月程度で帰れるものだと思っていたんです。だから、こんなに何年も帰れなくなるとは思ってもみませんでした。
―― この本は住民の方の「帰りたい」「帰りたくない」という複雑な思いを無視して帰還政策がすすめられていることに疑問を投げかけていましたね。
被災した当初は、とにかく多くの住民が「富岡に帰りたい」と思っていました。ですが、第一原子力発電所の一号機と三号機が爆発し、放射能汚染の状況も明らかになってきました。するとだんだん「富岡に帰りたいけど」と「けど」がつくようになってきます。
早いところで震災の年の6月頃から一時帰宅がはじまります。そこで、大半の住民が「帰るのは無理だろう」と感じはじめました。家が地震でガタガタになっていて、割れた茶碗が散乱していても片づけられない。放射能物質が入ってくるからと窓も開けられない。その状態でどうやってここに帰ればいいんだと感じましたね。
だんだんと「帰りたい」「帰りたいけど」「帰れねぇんだ」という風になっていった。ですが、テレビや新聞などでは、「帰りたい」という方々の涙ながらの声が報道されました。それが画になると言われればそうなのかもしれません。
私の母も「帰りたいなぁ。でも、帰れないな」とよく言うんです。そして、福島に戻る人をみて「やっぱり、みんな帰るんだなぁ」と言うんです。「帰りたい」のか「帰りたくない」のかどっちなんだよと、ぼくは思うんですが、その感情はすごくよく分かるんです。
放射能の問題だけではなく、道路も整備されていない、働くところもない、家の修理もしないといけない。様々な要因が重なっていて、何よりも事故を起こした発電所の状況が不確定である事。当事者としてみれば「帰りたいけど、帰れねぇ」となってしまう。
私と同じく避難をして、津波で家が流されてしまった方がいました。彼は「おめぇらは良いよな、家も土地もある」と言って、なかなかぼく達と話してくれなかったんです。その人は全部流されてしまったから、写真一枚しかなかった。
でも、少しづつ話すようになり、一年ほど経って、その方が別の場所に引越しをする時に、「おめぇらは可哀そうだな」と言われたんです。「俺たちは何にもないから、次にいくしかないけど、おめぇらは家も土地もあるもんな」と言われたんですよ。その言葉がすごく私の心の中に残っています。もし、全部家がなくなっていたら「帰らない」という判断がしやすかったのかもしれない。でも、それとは違う様な気がしています。
―― 単純に「帰りたい」という言葉だけで語りきれる問題ではないんですね。
しかし、現在はこういった複雑な「帰りたいけど、帰れない」という気持ちがおざなりになっています。当初の「帰りたい」という声だけが取り上げられ、帰還政策として進められようとしている。帰るか帰らないかという二者択一を一方的につきつけられる可能性があるんです。
この本の著者の一人である、山下さんと話していて分かったのは「避難」を解消するためには、「元の場所に帰る」ということが前提だということです。法学的にはそういうイメージになっているらしい。それは、放射能汚染を想定していない制度です。
今、政府は「除染」をするから、帰ることが可能になると言っています。しかし、本当に安全なのか? と感じてしまいます。誰の責任でここに住んでいて大丈夫だと言っているのか。「大丈夫」と言われても、避難した時の恐怖感は忘れられません。放射能は目に見えないからこそ、より恐怖を感じてしまいます。
私達だって帰りたいです。放射能のない地域に帰りたいんです。でも、放射能を完全に無くす方法は確立されていませんから、そんな願いが叶わないことは、なんとなく感じています。でも、他の人から「もう帰れないでしょ」という言い方されると、お前に言われたくないという反発も出て来る。そういうジレンマもあります。
「帰りたいんでしょ」という言葉も、「帰れないでしょ」という言葉も、どっちもしっくりこないんです。その「違和感」を上手く言葉で伝えられない。どう言っていいのか分からないから、怒りになってしまう。「そんなこと言うんだったらおめぇらが住んでみろ」と。でも、それは本心ではないというか、気持ちを上手く表現できないからそう言ってしまうんですよね。
遠きにありて
―― この本は、山下祐介さん・佐藤彰彦さんの社会学者お二人と、市村さんとで議論しているのを基につくられていますよね。市村さんは被災当事者の方の声を代弁する役割をしていると思うのですが、3人での話合いの中で発見などはありましたか。
私は、被災後「とみおか子ども未来ネットワーク」という団体の代表をつとめ、何度もタウンミーティングを行ってきました。この本で出ている事例は、ぼく個人の見解というよりも、タウンミーティングで話し合われたことと言ってもいいかもしれません。震災から1年2年経った当時のぐじゃぐじゃとした住民たちの気持ちが詰まっているんです。
はじめ山下さんが「話を聞かせて欲しい」と来た時、私達はとっても怒っていました。とにかく、混乱していて怒り以外の表現方法がよく分かりませんでした。ですので、山下さんには「あんた達何しに来たんだ」って厳しい言葉を投げかける時もありました。
でも、言葉にするうちにこのもやもやとした違和感が整理されていきました。編集され本になることで、より明確になっていった。話をするまではふわふわしているものをつかむような気持ちだったんですが、今はもう少し具体的なものをつかめるようになってきました。これからは、次はどうしたらいいのかという話をしたいと考えています。
「なじょすっぺなぁ」
実は、原発のことも事故が起こるまで真剣に考えたことはありませんでした。悔しいですが、ずっと安全だと思って生活していました。町に原発があることは当たり前だったんです。
よく、「散々恩恵をもらってきたから文句なんて言えないだろう」と言われます。でも、その「恩恵」ってなんだろうと思うんです。今、私達は土地に戻れないし、行くだけで健康被害があるかもしれない。確かに賠償はされますが、元の生活が戻ってくることはありません。
大きな企業があって地域が経済的に成り立っているような場所は日本各地にもあるはずです。それと同じように東京電力が福島にもありました。しかし、原発という話になると「なんでこんな危険なものを誘致したんだ」という話に変わってしまいます。
いま、除染作業で発生した廃棄物を補完する中間貯蔵施設を、事故を起こした原発付近に建てようという声が出ています。なんだか「一度汚れたんだからここにおいてしまえ」という感覚が伝わってきます。押しつけられた側からすれば、こんなにも理不尽なことがまかり通るんだと思いますね。永久的なものではなく、30年以内に福島県外で処分場を捜すという話ですが、本当にそうなるのか疑問です。自分のふるさとが「汚物を置いていいんだ」と思われている。それはすごく辛いことです。
なんか、福島の話って辛いんですよ。原発のニュースを聞く度に、にっちもさっちも行かなくなっているのではと胸が痛い。自分の「ふるさと」に向き合って考えるのは、精神的に大変なことです。だから断ち切ってしまいたいという気持ちも分かります。誰だって夢のある明るい話がしたいですから。
一方で、原発の問題が忘れられてしまう恐怖もあります。過去の過ちをなかったことにして進んでしまったなら、結局なんにも改善されないままになってしまう感覚がぼくの中にあるんです。でも、声を上げても聞く人がいなかったらただ「騒いでいる」と思われてしまう。でも、言わなきゃいいのかと言われると、基本的に民主主義って声を発しなければ合意していることになるルールですからね。
私は、町のパソコン屋だったんで、今まで地域だとか、民主主義だとかそんなこと深く考えたことがなかったんです。仕事をして家族を養っていくので精いっぱいでした。住民のほとんどがそうだったと思います。でも、震災や事故が起きて、自分たちの目の前に大きくて複雑な問題が立ちはだかった。どうしても、考えざるを得なくなったんです。
福島のことを考えていると、とてつもなく複雑で数えきれないほどのピースがあるパズルを組み合わせているような気持ちになります。原発の問題はありとあらゆる問題が関わっています。今回の事故で、今まで様々な要因で組み合わされていたはずのピースが、一瞬でバラバラになってしまった。どことどこを組み合わせれば元に戻るのか、必死で考えて、良さそうな組み合わせが見つかったと思ったら、放射能に一度汚染されたらなかなか元に戻らないことが分かってしまった。だから、持ったピースをどこに置いたらいいのか分からない状態なんです。
今は、「なじょすっぺなぁ(どうしよう)」という言葉しか出て来ません。でも、時間はどんどん過ぎていきます。避難先での生活がありますから、福島のことばかりをみているわけにもいきません。でも、前ばっかり向いてるわけにもいきません。「ふるさと」の現実と向き合わなければいけない。バランス良くやっていくことがこれからの課題ですね。
BLOGOSでは、ブログを「日記」ではなく「意思表明の場」と捉える政治家、「本音」を語れる研究者、法曹、医師、官僚、会社員など、多種多様な書き手が情報を発信しています。インターネットですから、もちろん「紙面の限界」はありません。ノーカットで余さず伝え、読み手と書き手をつなげます。
福島原発事故から3年たとうとし、今もなお10万人以上の人が避難生活を続けています。原発避難をめぐり何が起こっているのか。興味深い記事ですので、紹介させていただきます。
なにを壊され、なにを奪われ、なにを背負わされたのか 『人間なき復興』著者・市村高志氏インタビュー
福島第一原発事故から3年が経とうとし、今もなお10万人以上が避難生活を続けている。今、原発避難をめぐり何が起こっているのか。社会学者と被災当事者の21時間にも及ぶ議論を基に、『人間なき復興』(明石書店)が昨年11月に上梓された。今回は、共著者の一人で、被災当事者である市村高志氏に話を伺った。(聞き手・構成/山本菜々子)
帰りたいけど帰れない
―― 市村さんは震災以前どのような生活をされていたのでしょうか。
震災が来るまで、私は福島県富岡町でパソコンの修理や業務システムの構築、生損保の保険代理店などの仕事をしていました。震災当時、中学生の子どもが2人と小学生が1人。私の年老いた母とも同居して6人家族で暮らしていました。3月11日はちょうど長女の中学校の卒業式でした。地震が起きた時は帰宅途中で、ちょうど買い物に立ちよった店の駐車場にいました。
そして、私達は訳も分からず「着の身着のまま」避難しました。私達だけではなく大半の住民が一週間や、長くても1カ月程度で帰れるものだと思っていたんです。だから、こんなに何年も帰れなくなるとは思ってもみませんでした。
―― この本は住民の方の「帰りたい」「帰りたくない」という複雑な思いを無視して帰還政策がすすめられていることに疑問を投げかけていましたね。
被災した当初は、とにかく多くの住民が「富岡に帰りたい」と思っていました。ですが、第一原子力発電所の一号機と三号機が爆発し、放射能汚染の状況も明らかになってきました。するとだんだん「富岡に帰りたいけど」と「けど」がつくようになってきます。
早いところで震災の年の6月頃から一時帰宅がはじまります。そこで、大半の住民が「帰るのは無理だろう」と感じはじめました。家が地震でガタガタになっていて、割れた茶碗が散乱していても片づけられない。放射能物質が入ってくるからと窓も開けられない。その状態でどうやってここに帰ればいいんだと感じましたね。
だんだんと「帰りたい」「帰りたいけど」「帰れねぇんだ」という風になっていった。ですが、テレビや新聞などでは、「帰りたい」という方々の涙ながらの声が報道されました。それが画になると言われればそうなのかもしれません。
私の母も「帰りたいなぁ。でも、帰れないな」とよく言うんです。そして、福島に戻る人をみて「やっぱり、みんな帰るんだなぁ」と言うんです。「帰りたい」のか「帰りたくない」のかどっちなんだよと、ぼくは思うんですが、その感情はすごくよく分かるんです。
放射能の問題だけではなく、道路も整備されていない、働くところもない、家の修理もしないといけない。様々な要因が重なっていて、何よりも事故を起こした発電所の状況が不確定である事。当事者としてみれば「帰りたいけど、帰れねぇ」となってしまう。
私と同じく避難をして、津波で家が流されてしまった方がいました。彼は「おめぇらは良いよな、家も土地もある」と言って、なかなかぼく達と話してくれなかったんです。その人は全部流されてしまったから、写真一枚しかなかった。
でも、少しづつ話すようになり、一年ほど経って、その方が別の場所に引越しをする時に、「おめぇらは可哀そうだな」と言われたんです。「俺たちは何にもないから、次にいくしかないけど、おめぇらは家も土地もあるもんな」と言われたんですよ。その言葉がすごく私の心の中に残っています。もし、全部家がなくなっていたら「帰らない」という判断がしやすかったのかもしれない。でも、それとは違う様な気がしています。
―― 単純に「帰りたい」という言葉だけで語りきれる問題ではないんですね。
しかし、現在はこういった複雑な「帰りたいけど、帰れない」という気持ちがおざなりになっています。当初の「帰りたい」という声だけが取り上げられ、帰還政策として進められようとしている。帰るか帰らないかという二者択一を一方的につきつけられる可能性があるんです。
この本の著者の一人である、山下さんと話していて分かったのは「避難」を解消するためには、「元の場所に帰る」ということが前提だということです。法学的にはそういうイメージになっているらしい。それは、放射能汚染を想定していない制度です。
今、政府は「除染」をするから、帰ることが可能になると言っています。しかし、本当に安全なのか? と感じてしまいます。誰の責任でここに住んでいて大丈夫だと言っているのか。「大丈夫」と言われても、避難した時の恐怖感は忘れられません。放射能は目に見えないからこそ、より恐怖を感じてしまいます。
私達だって帰りたいです。放射能のない地域に帰りたいんです。でも、放射能を完全に無くす方法は確立されていませんから、そんな願いが叶わないことは、なんとなく感じています。でも、他の人から「もう帰れないでしょ」という言い方されると、お前に言われたくないという反発も出て来る。そういうジレンマもあります。
「帰りたいんでしょ」という言葉も、「帰れないでしょ」という言葉も、どっちもしっくりこないんです。その「違和感」を上手く言葉で伝えられない。どう言っていいのか分からないから、怒りになってしまう。「そんなこと言うんだったらおめぇらが住んでみろ」と。でも、それは本心ではないというか、気持ちを上手く表現できないからそう言ってしまうんですよね。
遠きにありて
―― この本は、山下祐介さん・佐藤彰彦さんの社会学者お二人と、市村さんとで議論しているのを基につくられていますよね。市村さんは被災当事者の方の声を代弁する役割をしていると思うのですが、3人での話合いの中で発見などはありましたか。
私は、被災後「とみおか子ども未来ネットワーク」という団体の代表をつとめ、何度もタウンミーティングを行ってきました。この本で出ている事例は、ぼく個人の見解というよりも、タウンミーティングで話し合われたことと言ってもいいかもしれません。震災から1年2年経った当時のぐじゃぐじゃとした住民たちの気持ちが詰まっているんです。
はじめ山下さんが「話を聞かせて欲しい」と来た時、私達はとっても怒っていました。とにかく、混乱していて怒り以外の表現方法がよく分かりませんでした。ですので、山下さんには「あんた達何しに来たんだ」って厳しい言葉を投げかける時もありました。
でも、言葉にするうちにこのもやもやとした違和感が整理されていきました。編集され本になることで、より明確になっていった。話をするまではふわふわしているものをつかむような気持ちだったんですが、今はもう少し具体的なものをつかめるようになってきました。これからは、次はどうしたらいいのかという話をしたいと考えています。
「なじょすっぺなぁ」
実は、原発のことも事故が起こるまで真剣に考えたことはありませんでした。悔しいですが、ずっと安全だと思って生活していました。町に原発があることは当たり前だったんです。
よく、「散々恩恵をもらってきたから文句なんて言えないだろう」と言われます。でも、その「恩恵」ってなんだろうと思うんです。今、私達は土地に戻れないし、行くだけで健康被害があるかもしれない。確かに賠償はされますが、元の生活が戻ってくることはありません。
大きな企業があって地域が経済的に成り立っているような場所は日本各地にもあるはずです。それと同じように東京電力が福島にもありました。しかし、原発という話になると「なんでこんな危険なものを誘致したんだ」という話に変わってしまいます。
いま、除染作業で発生した廃棄物を補完する中間貯蔵施設を、事故を起こした原発付近に建てようという声が出ています。なんだか「一度汚れたんだからここにおいてしまえ」という感覚が伝わってきます。押しつけられた側からすれば、こんなにも理不尽なことがまかり通るんだと思いますね。永久的なものではなく、30年以内に福島県外で処分場を捜すという話ですが、本当にそうなるのか疑問です。自分のふるさとが「汚物を置いていいんだ」と思われている。それはすごく辛いことです。
なんか、福島の話って辛いんですよ。原発のニュースを聞く度に、にっちもさっちも行かなくなっているのではと胸が痛い。自分の「ふるさと」に向き合って考えるのは、精神的に大変なことです。だから断ち切ってしまいたいという気持ちも分かります。誰だって夢のある明るい話がしたいですから。
一方で、原発の問題が忘れられてしまう恐怖もあります。過去の過ちをなかったことにして進んでしまったなら、結局なんにも改善されないままになってしまう感覚がぼくの中にあるんです。でも、声を上げても聞く人がいなかったらただ「騒いでいる」と思われてしまう。でも、言わなきゃいいのかと言われると、基本的に民主主義って声を発しなければ合意していることになるルールですからね。
私は、町のパソコン屋だったんで、今まで地域だとか、民主主義だとかそんなこと深く考えたことがなかったんです。仕事をして家族を養っていくので精いっぱいでした。住民のほとんどがそうだったと思います。でも、震災や事故が起きて、自分たちの目の前に大きくて複雑な問題が立ちはだかった。どうしても、考えざるを得なくなったんです。
福島のことを考えていると、とてつもなく複雑で数えきれないほどのピースがあるパズルを組み合わせているような気持ちになります。原発の問題はありとあらゆる問題が関わっています。今回の事故で、今まで様々な要因で組み合わされていたはずのピースが、一瞬でバラバラになってしまった。どことどこを組み合わせれば元に戻るのか、必死で考えて、良さそうな組み合わせが見つかったと思ったら、放射能に一度汚染されたらなかなか元に戻らないことが分かってしまった。だから、持ったピースをどこに置いたらいいのか分からない状態なんです。
今は、「なじょすっぺなぁ(どうしよう)」という言葉しか出て来ません。でも、時間はどんどん過ぎていきます。避難先での生活がありますから、福島のことばかりをみているわけにもいきません。でも、前ばっかり向いてるわけにもいきません。「ふるさと」の現実と向き合わなければいけない。バランス良くやっていくことがこれからの課題ですね。
2013年11月22日
エーゲ海3島 1日クルーズ ギリシャ旅行その7
本日はエーゲ海3島1日クルーズです。
早朝ホテルを出発し、ピレウス港へ。民族衣装を着た乗船員が出迎えてくれました。
今日の船は大型のクルーズ船で船が揺れることは少ないようですが、小さなクルーズ船のときは大変な時もあるようです。
快晴の好天気、ちょっと風があり肌寒かったですが、真っ青な美しいエーゲ海をポロス島に向かいます。
ギリシャに来てからバスで次々と移動してきたあわただしい旅から一転、デッキでで寝ころびながら移り行くエーゲ海を眺めながら夢心地のゆったりとした時が流れていきます。
ポロス島までの長い航海も、舞台で演じられるエンターテイメントなどでも楽しく過ごすことができました。
今日訪れる3島の中で一番小さなポロス島は入り江に白い家々がずらりと並び思わず写真を撮りたくなる絶景です。
展望台からの美しいエーゲ海を眺めてから、島の先端に向かって散歩しました。小さな入り江沿いは帆船がびっしり停泊しています。ロバに乗って観光もできます。盛んに客引きしていましたが時間がありません。
港からしばらく歩いていく泳ぎのできるビーチがあります。肌寒い中数人の男女が水泳をしていました。欧米人は皮膚の感覚が日本人とは全然違うようです。
遊歩道をしばらく歩いていくと、展望代から見たエーゲ海とは違う絶景が待っていました。
こんな美しい島なら、数日何もしないで滞在しても飽きることはないとは思いますが何しろ時間がありません。心残りながらクルーズ船に戻り昼食。クルーズ船は次のイドラ島に向かいます。
イドラ島は緑に覆われたポロス島ヤエギナ島と比べると、白い岩石の島という印象です。時間があまりないので展望台にのぼり、写真を撮ってからすぐに最後の島エギナ島に向かいました。
エギナ島は古代には独立のポリスでした。紀元前7世紀には、ギリシャでも1,2を争う海上勢力になり、当時はアテネとライバル関係にありました。サラニコス湾の真ん中にあるこの島は、サラニコス諸島の中で人口が一番多い。
にぎやかな港からすぐにバスでアフェア神殿に向かいました。
アフェア神殿は紀元前6世紀末〜5世紀に建てられました。アルカイック時代後期の神殿の中で最も優れた建築のひとつと言われています。32本あった石柱の鬱、今は24本が残っています。
エギナ島には教会がたくさんあり、山の中に2,3人しか入らないような教会が建っていました。最後に教会を訪れました。
エギナ島はピスタチオの特産品で、お土産にたくさん売られています。ツアー客もたくさん買っていました。
クルーズ船に戻り、ピレウス港に帰着しました。美しく、楽しかったエーゲ海クルーズはこうして終了しました。
早朝ホテルを出発し、ピレウス港へ。民族衣装を着た乗船員が出迎えてくれました。
今日の船は大型のクルーズ船で船が揺れることは少ないようですが、小さなクルーズ船のときは大変な時もあるようです。
快晴の好天気、ちょっと風があり肌寒かったですが、真っ青な美しいエーゲ海をポロス島に向かいます。
ギリシャに来てからバスで次々と移動してきたあわただしい旅から一転、デッキでで寝ころびながら移り行くエーゲ海を眺めながら夢心地のゆったりとした時が流れていきます。
ポロス島までの長い航海も、舞台で演じられるエンターテイメントなどでも楽しく過ごすことができました。
今日訪れる3島の中で一番小さなポロス島は入り江に白い家々がずらりと並び思わず写真を撮りたくなる絶景です。
展望台からの美しいエーゲ海を眺めてから、島の先端に向かって散歩しました。小さな入り江沿いは帆船がびっしり停泊しています。ロバに乗って観光もできます。盛んに客引きしていましたが時間がありません。
港からしばらく歩いていく泳ぎのできるビーチがあります。肌寒い中数人の男女が水泳をしていました。欧米人は皮膚の感覚が日本人とは全然違うようです。
遊歩道をしばらく歩いていくと、展望代から見たエーゲ海とは違う絶景が待っていました。
こんな美しい島なら、数日何もしないで滞在しても飽きることはないとは思いますが何しろ時間がありません。心残りながらクルーズ船に戻り昼食。クルーズ船は次のイドラ島に向かいます。
イドラ島は緑に覆われたポロス島ヤエギナ島と比べると、白い岩石の島という印象です。時間があまりないので展望台にのぼり、写真を撮ってからすぐに最後の島エギナ島に向かいました。
エギナ島は古代には独立のポリスでした。紀元前7世紀には、ギリシャでも1,2を争う海上勢力になり、当時はアテネとライバル関係にありました。サラニコス湾の真ん中にあるこの島は、サラニコス諸島の中で人口が一番多い。
にぎやかな港からすぐにバスでアフェア神殿に向かいました。
アフェア神殿は紀元前6世紀末〜5世紀に建てられました。アルカイック時代後期の神殿の中で最も優れた建築のひとつと言われています。32本あった石柱の鬱、今は24本が残っています。
エギナ島には教会がたくさんあり、山の中に2,3人しか入らないような教会が建っていました。最後に教会を訪れました。
エギナ島はピスタチオの特産品で、お土産にたくさん売られています。ツアー客もたくさん買っていました。
クルーズ船に戻り、ピレウス港に帰着しました。美しく、楽しかったエーゲ海クルーズはこうして終了しました。
2013年09月21日
伊豆中央道/修善寺道路通行料 来年度に最大半額
9月11日・伊豆日日新聞報道です
県道路公社は、伊豆中央道と修善寺道路で最大5割の料金割引を、来年度の「できるだけ早い時期」から実施する準備を進めている。両道路の合併採算制導入に伴う地元向けサービスで、両道路の完全無料化まで継続する。同公社は、合併採算制を導入する2015年度当初から料金割引を実施する予定だったが、来春の伊豆縦貫道る地元要望に応え、前倒しすることにした。
全文は以下をクリックしてください。
中央道.pdf
次は9月19日の伊豆日日新聞コラム「狩野川」です。
将来的に実質伊豆縦貫道」となる伊豆中央道と修書寺道路の無料化は、2023年度からの見通しとなった。工事中の東駿河湾環状道路の三島市逐原新田卜函南町塚本が今年度中に開通し、東名沼津―伊豆市が1本の道でつながり、この開通に合わせた無料化一は夢に終わった。
全文は以下をクリックしてください。
中央道2.pdf
伊豆市から三島や沼津に出かける時、伊豆中央道と修書寺道路を使えば横瀬での渋滞を避けることができ時間がだいぶ短縮されます。しかし今はこの2つの有料道路を使うと200円かかりますので、どうしても一般道を走ります。
11日の報道で半額になるといったんは喜んだものの、160枚券を購入する事が必要とのこと。これでは利用はできません。「狩野川」が書いてあるように、せめて10枚件でも発行すれば利用しやすくなります。
せっかくの道路を住民が使いやすいように県道路公社は考えていただきたいと思います。行政も県道路公社との交渉を引き続きおこなって欲しいものです。
県道路公社は、伊豆中央道と修善寺道路で最大5割の料金割引を、来年度の「できるだけ早い時期」から実施する準備を進めている。両道路の合併採算制導入に伴う地元向けサービスで、両道路の完全無料化まで継続する。同公社は、合併採算制を導入する2015年度当初から料金割引を実施する予定だったが、来春の伊豆縦貫道る地元要望に応え、前倒しすることにした。
全文は以下をクリックしてください。
中央道.pdf
次は9月19日の伊豆日日新聞コラム「狩野川」です。
将来的に実質伊豆縦貫道」となる伊豆中央道と修書寺道路の無料化は、2023年度からの見通しとなった。工事中の東駿河湾環状道路の三島市逐原新田卜函南町塚本が今年度中に開通し、東名沼津―伊豆市が1本の道でつながり、この開通に合わせた無料化一は夢に終わった。
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中央道2.pdf
伊豆市から三島や沼津に出かける時、伊豆中央道と修書寺道路を使えば横瀬での渋滞を避けることができ時間がだいぶ短縮されます。しかし今はこの2つの有料道路を使うと200円かかりますので、どうしても一般道を走ります。
11日の報道で半額になるといったんは喜んだものの、160枚券を購入する事が必要とのこと。これでは利用はできません。「狩野川」が書いてあるように、せめて10枚件でも発行すれば利用しやすくなります。
せっかくの道路を住民が使いやすいように県道路公社は考えていただきたいと思います。行政も県道路公社との交渉を引き続きおこなって欲しいものです。
2013年06月02日
熱中症の予防・水分と塩分 早めに補給
気温と湿度の上昇とともに熱中症の心配が出てきます。熱中症の予防にはどのようにしたら良いでしょうか。
毎日新聞・ヘルシーレポートから熱中症の予防について紹介いたします。
まだ5月だというのに,各地で最高気温が30度を超す暑さを記録している。蒸し暑い梅雨も、真夏と同様に熱中症に気をつけなければならない季節だ。スポーツ中はもちろん、日常生活でも汗がたくさん出たら、まずは水分補給が必要だ。熱中症の研究で知られる森本武利・京都府立医科大学名誉教授(生理学)に、運動と水分補給の関係、熱中症の予防法を聞いた。
全文は以下をクリックしてください。
熱中症.pdf
毎日新聞・ヘルシーレポートから熱中症の予防について紹介いたします。
まだ5月だというのに,各地で最高気温が30度を超す暑さを記録している。蒸し暑い梅雨も、真夏と同様に熱中症に気をつけなければならない季節だ。スポーツ中はもちろん、日常生活でも汗がたくさん出たら、まずは水分補給が必要だ。熱中症の研究で知られる森本武利・京都府立医科大学名誉教授(生理学)に、運動と水分補給の関係、熱中症の予防法を聞いた。
全文は以下をクリックしてください。
熱中症.pdf
2012年04月29日
話題の東京スカイツリーを見てきました。
2012年04月28日
ボランティアは今こそ現地に・・・遠野まごころネットより
以前、このブログでは私も参加した静岡県ボランティアセンターでの岩手県・遠野市でのボランティアについて述べました。
その活動の拠点となったNPO法人遠野まごころネット理事長 多田一彦氏の4月25日・毎日新聞への投稿を紹介いたします。
「まだボランティアは必要ですか」。こんな質問が昨年の夏過ぎから少しずつ増えてきた。初めは情けなくて答える気にもならなかった。
でもこれが日本の現実であり、答えるのが我々の役目だと思い直した。よく考えてみると、まだ必要かと問いてくれる人は考えていてくれる人でもある。現状を伝えきれていない発信者側に反省の余地がある。
発信者側とは、国や我々をはじめとする、ちゃんと状況を伝えるべき人たちのことだ。これからはますます伝えることが難しくなるだろう。伝えるべき者が現状をしっかり捉えきれていないことすらあるからだ。
遠野まこころネットは東日本大震災の発生直後、岩手県遠野市の有志が中心となって設立した支援団体だ。活動の主力はボランティア。これまでに全国そして世界約20 ヵ国から約6万人が訪れ、岩手県沿岸で支援活動に参加している。
今、我々は「被災地」という言葉をできる限り使わず「現地」と呼んでいる。ここは出口が見つからずさまよい続ける日本の最前線、そして開拓の地と考えるからだ。現地には今の日本が抱えるさまざまな問題や課題が凝縮されて存在している。国が通常の課題にしっかりと対応していれば解決できることが多い。今 、現地は復興に向け頑張っている。ニーズは次第にハッキリしてきている。だから個人も企業もその気になればいろいろなサポートが可能だ。
がれきは以前と比べればだいぶ減少している。農地の「復耕」はこれからが本番だ。農地中にはまだまだゴミが埋まっている。そのゴミを除去しなければ農地としては使えない。さらに休耕地も復耕しなければならない。ハープ園づくりヽ奇麗な水を取り戻すための森林整備等々。これらは単なるハード活動ではない。これが確実に地域づくリヘとつながっていくのだ。ソフトな部分はさらに重要で、各地・各団体・各人がいろいろな事業を計画し始めている。これらは実に多岐にわたる。
復興のネットワトクは網目状にひろがるのが望ましい。めちゃくちゃなネットワークで良いと思う。計画を協働で作成し、みなで磨き上げ、実現へと向かう。このレベルがアップし、スピードがアップすると、効率良く起業や復興も進む。起業や復興とは何も現地に限ってのことではない。被災者も遠隔地の人たちもボランティアも一緒になって起業や復興を考えなければ到底できるものではない。これからはビジネスセンスが重要なポイントのひとつ、まさに企業の出番でもある。自社の能力ある開拓者を現地に投入する時は今だ。もし自分がその適任だと思う人は自らを投入すべきだと思う。
東日本大震災はこのうえもない悲劇であり、絶望的な悲しみをもたらした。だが、現実として起きてしまった。取り返しがつかない。いくら悔やんでも戻らない。だから今この時を無理にでも最大のチャンスに変換しなければならない。最大のチャンスと考えるしか道はない¨だから戻るのではなく未来に向かって開拓しなければならない。開拓魂で!
そのためには人材を投入すべきだ。今、力を使わずしていつ使う。「自分の能力を最大限に今の日本に使え。現地に来い!たとえ何もなくても「人が入り続けること」が東日本の復興へとつながる。連体期間でももちろんいい。質問のある方は遠野まごころネット(http://tonomagokoro.net)へ連絡してほしい。
ただ・かずひこ 青山学院大法卒 遠野まこころネットは地元民間団体や他の支援団体と連携し約60団体で構成。
その活動の拠点となったNPO法人遠野まごころネット理事長 多田一彦氏の4月25日・毎日新聞への投稿を紹介いたします。
「まだボランティアは必要ですか」。こんな質問が昨年の夏過ぎから少しずつ増えてきた。初めは情けなくて答える気にもならなかった。
でもこれが日本の現実であり、答えるのが我々の役目だと思い直した。よく考えてみると、まだ必要かと問いてくれる人は考えていてくれる人でもある。現状を伝えきれていない発信者側に反省の余地がある。
発信者側とは、国や我々をはじめとする、ちゃんと状況を伝えるべき人たちのことだ。これからはますます伝えることが難しくなるだろう。伝えるべき者が現状をしっかり捉えきれていないことすらあるからだ。
遠野まこころネットは東日本大震災の発生直後、岩手県遠野市の有志が中心となって設立した支援団体だ。活動の主力はボランティア。これまでに全国そして世界約20 ヵ国から約6万人が訪れ、岩手県沿岸で支援活動に参加している。
今、我々は「被災地」という言葉をできる限り使わず「現地」と呼んでいる。ここは出口が見つからずさまよい続ける日本の最前線、そして開拓の地と考えるからだ。現地には今の日本が抱えるさまざまな問題や課題が凝縮されて存在している。国が通常の課題にしっかりと対応していれば解決できることが多い。今 、現地は復興に向け頑張っている。ニーズは次第にハッキリしてきている。だから個人も企業もその気になればいろいろなサポートが可能だ。
がれきは以前と比べればだいぶ減少している。農地の「復耕」はこれからが本番だ。農地中にはまだまだゴミが埋まっている。そのゴミを除去しなければ農地としては使えない。さらに休耕地も復耕しなければならない。ハープ園づくりヽ奇麗な水を取り戻すための森林整備等々。これらは単なるハード活動ではない。これが確実に地域づくリヘとつながっていくのだ。ソフトな部分はさらに重要で、各地・各団体・各人がいろいろな事業を計画し始めている。これらは実に多岐にわたる。
復興のネットワトクは網目状にひろがるのが望ましい。めちゃくちゃなネットワークで良いと思う。計画を協働で作成し、みなで磨き上げ、実現へと向かう。このレベルがアップし、スピードがアップすると、効率良く起業や復興も進む。起業や復興とは何も現地に限ってのことではない。被災者も遠隔地の人たちもボランティアも一緒になって起業や復興を考えなければ到底できるものではない。これからはビジネスセンスが重要なポイントのひとつ、まさに企業の出番でもある。自社の能力ある開拓者を現地に投入する時は今だ。もし自分がその適任だと思う人は自らを投入すべきだと思う。
東日本大震災はこのうえもない悲劇であり、絶望的な悲しみをもたらした。だが、現実として起きてしまった。取り返しがつかない。いくら悔やんでも戻らない。だから今この時を無理にでも最大のチャンスに変換しなければならない。最大のチャンスと考えるしか道はない¨だから戻るのではなく未来に向かって開拓しなければならない。開拓魂で!
そのためには人材を投入すべきだ。今、力を使わずしていつ使う。「自分の能力を最大限に今の日本に使え。現地に来い!たとえ何もなくても「人が入り続けること」が東日本の復興へとつながる。連体期間でももちろんいい。質問のある方は遠野まごころネット(http://tonomagokoro.net)へ連絡してほしい。
ただ・かずひこ 青山学院大法卒 遠野まこころネットは地元民間団体や他の支援団体と連携し約60団体で構成。
2012年04月21日
伊豆市・土肥地区住民 津波避難路の整備を菊地市長に要望
4月20日 伊豆日日新聞報道です。
伊豆市土肥地区の中心3区在住消防団OBで作る「二粋会」はこのほど、津波避難路の整備を菊地豊市長に要望しました。
全文は以下のpdfをクリックしてください。
津波.pdf
過去のブログでこんなことを書きました。
昨夜のNHK「クローズアップ現代」では、東日本大震災の津波に会いながら、百数十人の児童全員が無事だった岩手県のある小学校のことを取り上げていました。
地震が発生したときは、生徒は高台にあった学校ではなく、全員帰宅していました。そして、海岸沿いにあった多くの児童の家は津波に流されました。
それでは何故、奇跡的に全員無事だったのでしょうか。
そこには学校の徹底的な教育があったようです。それは「繰り返し行われた避難訓練」そして、「指定された避難指定地を信じるな」「津浪てんでんこ」などでした。
地震が発生したとき、帰宅していた生徒は津波の危険を察知して、自ら高台に避難しました。それも、より高い所を目指したそうです。中には避難を渋る家族を強引に連れて行った生徒もいました。生徒たちの行動が多くの大人の命を救ったのです。
「津波てんでんこ」。この言葉はどんな意味を持っているでしょうか。
「津浪てんでんこ」とは津波がきたら、自分ひとりでも逃げろ、自分の命は自分で守れという東北地方の言葉ですが、今回の津波ではこれが守られず、多くの犠牲者が出ました。
それは家族の安否を確かめるために家に戻って多くの人々が津波に巻き込まれてしまったのです。
この小学校の教訓は、家族での徹底的な話し合いと信頼関係があってこそ「津波てんでんこ」が生かされたということだったようです。
「大地震がきたら、大津波が来る。その時はとにかく高台に逃げろ」と家族で話し合い、お互いに約束し合っていれば、「子供は、親、家族は無事に逃げただろうか」と心配し、家まで戻って確認する必要は無く、「自分勝手に逃げる」ことができます。
この地域ではこのことがまさに実践されたようです。
伊豆市でも、土肥地区は大津波の危険があります。
避難タワーの設置などの計画がされているようですが、想定外の災害が発生したとき、人間の作った物がいかに無力だったかは、今回の震災で明らかになりました。
伊豆市ではこの小学校の教訓を学び、より有効な災害対策を進めていく必要があるのではないでしょうか
土肥地区では6000万円もの巨額の費用をかけて津波避難タワーを作る計画がありますが、避難タワーでお子さんや、住民の命を守ることができるでしょうか。
避難タワーは近くに安全な場所が無い地区が苦肉の策として建設する施設です。
土肥地区はどうでしょうか。土肥はそのような地区とは違い近くに安全な避難場所を確保できます。
来るべき東海大地震での大津波の想定は伊豆半島で最大20メートルを超えています。
東日本大震災での津波は30メートルを超えたところもありました。そんな津波が来たら避難タワーなど役に立ちません。
一番安全なのは山に逃げることです。幸い土肥地区にはすぐ横に山があります。山に登る簡単な道を整備するだけなら6000万円もの巨費は必要ないでしょう。
菊地市長は住民の要望の強い避難路の整備からまずは始めるべきではないでしょうか。
伊豆市土肥地区の中心3区在住消防団OBで作る「二粋会」はこのほど、津波避難路の整備を菊地豊市長に要望しました。
全文は以下のpdfをクリックしてください。
津波.pdf
過去のブログでこんなことを書きました。
昨夜のNHK「クローズアップ現代」では、東日本大震災の津波に会いながら、百数十人の児童全員が無事だった岩手県のある小学校のことを取り上げていました。
地震が発生したときは、生徒は高台にあった学校ではなく、全員帰宅していました。そして、海岸沿いにあった多くの児童の家は津波に流されました。
それでは何故、奇跡的に全員無事だったのでしょうか。
そこには学校の徹底的な教育があったようです。それは「繰り返し行われた避難訓練」そして、「指定された避難指定地を信じるな」「津浪てんでんこ」などでした。
地震が発生したとき、帰宅していた生徒は津波の危険を察知して、自ら高台に避難しました。それも、より高い所を目指したそうです。中には避難を渋る家族を強引に連れて行った生徒もいました。生徒たちの行動が多くの大人の命を救ったのです。
「津波てんでんこ」。この言葉はどんな意味を持っているでしょうか。
「津浪てんでんこ」とは津波がきたら、自分ひとりでも逃げろ、自分の命は自分で守れという東北地方の言葉ですが、今回の津波ではこれが守られず、多くの犠牲者が出ました。
それは家族の安否を確かめるために家に戻って多くの人々が津波に巻き込まれてしまったのです。
この小学校の教訓は、家族での徹底的な話し合いと信頼関係があってこそ「津波てんでんこ」が生かされたということだったようです。
「大地震がきたら、大津波が来る。その時はとにかく高台に逃げろ」と家族で話し合い、お互いに約束し合っていれば、「子供は、親、家族は無事に逃げただろうか」と心配し、家まで戻って確認する必要は無く、「自分勝手に逃げる」ことができます。
この地域ではこのことがまさに実践されたようです。
伊豆市でも、土肥地区は大津波の危険があります。
避難タワーの設置などの計画がされているようですが、想定外の災害が発生したとき、人間の作った物がいかに無力だったかは、今回の震災で明らかになりました。
伊豆市ではこの小学校の教訓を学び、より有効な災害対策を進めていく必要があるのではないでしょうか
土肥地区では6000万円もの巨額の費用をかけて津波避難タワーを作る計画がありますが、避難タワーでお子さんや、住民の命を守ることができるでしょうか。
避難タワーは近くに安全な場所が無い地区が苦肉の策として建設する施設です。
土肥地区はどうでしょうか。土肥はそのような地区とは違い近くに安全な避難場所を確保できます。
来るべき東海大地震での大津波の想定は伊豆半島で最大20メートルを超えています。
東日本大震災での津波は30メートルを超えたところもありました。そんな津波が来たら避難タワーなど役に立ちません。
一番安全なのは山に逃げることです。幸い土肥地区にはすぐ横に山があります。山に登る簡単な道を整備するだけなら6000万円もの巨費は必要ないでしょう。
菊地市長は住民の要望の強い避難路の整備からまずは始めるべきではないでしょうか。