今日3月11日は2011年東北大震災11年目になります。
ウクライナ戦争、新型コロナ感染症の拡大という事態の陰に隠れ、東北大震災の報道がとても少なくなっています。
大震災の復興がどれだけ進んでいるのかよく分からない中、私たちの関心が薄れつつあるあるのも現実です。
特に福島原発事故は人間の目には見えない「放射能」との闘いであり、いまだにその解決への道は見えていません。
原発立地の双葉町をはじめ近隣自治体で立ち退きを迫られた住民は帰還もままならない状況のままです。
2017年04月05日から 当ブログでは「これが復興か 福島の今 」と題した連載を行いました。
東北大震災をそして福島原発事故を風化させてはいけない。そんな思いから当時のブログを再掲載いたします。
大震災や福島原発事故に関してマスコミでは例年より取り扱いが少ないと思いますが、それでも特集が組まれると思います。
2023年現在、被災地はどうなっているのか、私が記した2017年とどう変わったのか、比較するうえでの参考にしていただければ幸いです。
これが復興か 福島の今 その1
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448728787.html
連載は その10 まで続きます。
その10では次のように締めくくっています
2017年04月11日
「これが復興か 福島の今」を終えるにあたって
福島原発事故が起こって6年、そんなことはどこかへ行ってしまったかのように、原発再稼働が次々と行われています。
原発による電力は安いという迷信はすでに崩れてしまいました。そして原発が無くても日本の電力は大丈夫ということも証明されました。それなのに何故原発の再稼働を急ぐのでしょうか。
福島の現状はマスコミ報道からはあまり真相が伝わりません。そして、阿部首相が3.11追悼式で原発事故に全く触れなかったように、政府はできるだけ原発から国民の目をそらそうとしているとしか思えません。それはオリンピックという大事業が間近に控えているからだと言われています。
静岡県でも浜岡原発が運転停止中です。運転再開に向けて様々な取り組みが実施されているようですが、いつ来てもおかしくないと言われている大地震に対しての備えは万全なのでしょうか。
もし福島のような原発事故が発生したら、福島を大幅に上回る大災害になると言われています。
福島の現実は他人事ではない。自分たち自身の問題としてとらえなければならないという思いを強くした研修でした。
2022年03月11日
2021年03月12日
東北に炎でエール キャンドル1110個増やす
東日本大震災10年となる昨日全国各地で追悼の行事が開催されました。
伊豆の国市を拠点としているボランティア団体等が伊豆市狩野川記念公園で「伊豆の真ん中東北に送ろう。追悼・エール・絆の灯」を開催しました。
昼間の暖かさとは一転、夕方から急激に冷えてきている中、たくさんの市民の方々の参加で盛大なイベントでした。主催者の皆様本当にお疲れ様でした。皆様の強い思いを届けることができたと思います。
3月12日 伊豆日日新聞報道です。
img20210312_08592187.pdf
伊豆の国市を拠点としているボランティア団体等が伊豆市狩野川記念公園で「伊豆の真ん中東北に送ろう。追悼・エール・絆の灯」を開催しました。
昼間の暖かさとは一転、夕方から急激に冷えてきている中、たくさんの市民の方々の参加で盛大なイベントでした。主催者の皆様本当にお疲れ様でした。皆様の強い思いを届けることができたと思います。
3月12日 伊豆日日新聞報道です。
img20210312_08592187.pdf
2021年03月11日
福島原発事故10年「これが復興か 福島の今」を終えるにあたって
2021年3月11日、東日本大震災、福島原発事故から10年を迎えます。
私は2017年4月に仲間とともに福島原発事故自治体を訪れ、ブログに記録しました。
その記録を紐解きながら、福島原発の現在の姿を新聞報道などから引用させていただきながら、被災自治体がどのように復興をしてきたのか私なりに検証してきました。
2021年3月11日で10年を迎えても、福島原発被災自治体の復興は未だに道半ばであり、双葉町のように絶望的な自治体もあることがわかります。
原発事故がいったん起きたらどのような事が起こるのか、福島原発を見ても歴然としているも関らず、原発の再稼働を推進しようとしています。このシリーズを終わるにあたって、福島原発の現状がどうなっているのか、毎日新聞報道から見てみましょう。
2017年04月11日
「これが復興か 福島の今」を終えるにあたって
福島原発事故が起こって6年、そんなことはどこかへ行ってしまったかのように、原発再稼働が次々と行われています。
原発による電力は安いという迷信はすでに崩れてしまいました。そして原発が無くても日本の電力は大丈夫ということも証明されました。それなのに何故原発の再稼働を急ぐのでしょうか。
福島の現状はマスコミ報道からはあまり真相が伝わりません。そして、阿部首相が3.11追悼式で原発事故に全く触れなかったように、政府はできるだけ原発から国民の目をそらそうとしているとしか思えません。それはオリンピックという大事業が間近に控えているからだと言われています。
静岡県でも浜岡原発が運転停止中です。運転再開に向けて様々な取り組みが実施されているようですが、いつ来てもおかしくないと言われている大地震に対しての備えは万全なのでしょうか。
もし福島のような原発事故が発生したら、福島を大幅に上回る大災害になると言われています。
福島の現実は他人事ではない。自分たち自身の問題としてとらえなければならないという思いを強くした研修でした。
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448894991.html?1615381784
原発事故10年/3 見えぬ廃炉、費用青天井 現状の見積もり
毎日新聞 2021/3/4
水素爆発によって建屋の上部が吹き飛ばされ、鉄骨がむき出しになった1号機、灰色のカバーで覆われた4号機――。東京電力福島第1原発事故の発生から10年。現場には今でも生々しい爪痕が残る。2月16日午後、視察ツアーに参加した記者が海抜35メートルの高台から原子炉を見下ろしていると、10分ほどで左胸ポケットに入れた放射線測定器の甲高い機械音が鳴り響いた。1日に浴びられる放射線上限値の5分の1に到達した合図だ。
敷地内では約4000人態勢で廃炉、除染作業を進めており、白い防護服や防塵(ぼうじん)マスク、手袋、ゴーグルといった重装備の作業員らとすれ違う。除染が進み、敷地内の96%には一般的な作業服で立ち入れるようになったが、原子炉建屋付近の放射線量はなお高く、重装備でないと近づけない。
廃炉、賠償、除染など福島第1原発事故の処理にかかる費用は膨らむ一方だ。事故を起こした原発の廃炉や、避難を余儀なくされた住民への賠償などに巨額の費用がかかることは、事故直後から想像がついていた。原子力事業者の賠償責任を定めた原子力損害賠償法は、電力会社が無限責任を負うよう定めているが、「異常に巨大な天災」が原因の場合は免責になるという例外規定がある。「『想像していなかった地震と津波が起きたのだから、東電の責任ではない。そのため免責すべきだ』といろいろな人が言ってきた」。当時の首相、菅直人衆院議員は振り返る。当時の財務省担当者は「東電を免責すべきだとの意見の一方で、東電を法的整理(倒産)させるべきだとの声も強く、双方から責められた」と語る。
同省を中心に急ピッチで調整を進めた結果、国が一時的に廃炉や賠償費用を立て替え、東電が電気事業で得た利益で返済するなどの枠組みを作り上げた。東電は法的整理を回避したものの、2012年7月に国から1兆円の出資を受け実質国有化された。当時、内閣官房で制度の策定に関わった元経済産業省の北川慎介氏(62)は「法的整理は合法的に借金の棒引きができるが、それでは被災者への債務である賠償ができなくなる恐れがあった。国が税金で費用を支払うのも通らないと感じた」と振り返り、こう付け加えた。「今でもこれしかなかったと思っている」
しかし、高い放射線量に阻まれるなど廃炉は難航し、賠償や除染にかかる費用も膨らんでいった。16年には事故処理費用の見積もりを11兆円から22兆円に倍増せざるを得なくなり、賠償費用は東電を中心とした大手電力だけでなく、新たに参入した新電力にも負担を求めるなど枠組みの見直しも迫られた。電力会社の負担分は電気料金に上乗せされており、結果的に事故処理費用を背負っているのは国民だ。
東電はコスト削減などに全力を挙げているものの、収益改善の柱とされる柏崎刈羽原発の再稼働が想定以上に遅れている。4兆円と見積もる除染費用については、国が保有する東電ホールディングス株の売却益を充てる計画だが、同社の株価は事故前の6分の1と低迷。計画達成には株価が現在の約4倍の1500円になる必要があるが、見通しは立たない状況だ。
処理水も八方塞がり
さらに昨年12月、廃炉作業を点検する国の会議で東電が21年中に始める予定だった燃料デブリ取り出しの1年延長が報告された。英国企業に委託したロボットアームの製作が間に合わないためだ。21年1月には原子力規制委員会が、2、3号機の原子炉格納容器の上部に当たる部分が極めて高濃度の放射性物質に汚染されていたとの調査結果を公表。梶山弘志経産相は「廃炉作業はある程度の高線量下で実施されることを考慮して策定されている」として現行の廃炉スケジュールは見直さない姿勢を示したが、「今後も予測の難しい作業が想定される」と認める。
福島第1原発の敷地内には、原子炉建屋を取り囲むように青や灰色の円柱形のタンク約1050基(約124万トン)が並ぶ。タンクに貯蔵するのは汚染水から大部分の放射性物質を取り除いた汚染処理水だ。地下水や雨水が原子炉建屋に入り込むなど、現在も毎日140トンの汚染水が発生している。汚染水は22年度末には保管容量(137万トン)の上限に達する見通しで、政府はさらに浄化処理した水を海に放出する方向で検討しているが、地元漁業者の反発などで判断を先送りしている。
公益社団法人「日本経済研究センター」は、処理水に含まれるトリチウムの除去技術が確立された場合、除去に約40兆円かかるとして、現在8兆円と見込まれている廃炉費用が51兆円に膨らむと試算している。事故処理費用全体では81兆円に上る可能性があるという。小林辰男・主任研究員は「タンクを陸上保管し続ける場合、管理費は年間1500億円ずつかかる」と指摘する。
一般財団法人「日本エネルギー経済研究所」の村上朋子原子力グループマネジャーも「事故処理費用は年約1兆円以上ずつ増えるのではないか」と指摘。政府内からも「現在の金額では収まらなくなるのは必至だ」との見方が出ている。
ある経産省幹部は「処理費用のスキームはICU(集中治療室)のようなもの。いったん処置したが、悪くなればいずれ見直しが必要になる」と語る。同省からは「日本最大の電力会社がいつまでも国有化されていていいわけがない」として、廃炉や賠償は国の関与を強める一方で、東電は政府の脱炭素方針に基づき技術革新などを主導すべきだとの声もある。
処理費用は現状の見積もりより膨らむのが確実なのに、国はその不都合な真実を明かさず、責任の所在を曖昧にしたまま原発再稼働に力を入れ始めている。国際大の橘川武郎教授(エネルギー産業論)はこう話す。「果てしない廃炉、賠償といった事故処理を続ける会社は世界中のどこにもなく、いずれ国、東電ともに責任を放棄するのは目に見えている。原子力依存からの脱却なしにエネルギー政策の行く末を語れない時代に突入しているのではないか」【高橋祐貴、藤渕志保、工藤昭久】
https://mainichi.jp/articles/20210304/ddm/012/040/094000c
私は2017年4月に仲間とともに福島原発事故自治体を訪れ、ブログに記録しました。
その記録を紐解きながら、福島原発の現在の姿を新聞報道などから引用させていただきながら、被災自治体がどのように復興をしてきたのか私なりに検証してきました。
2021年3月11日で10年を迎えても、福島原発被災自治体の復興は未だに道半ばであり、双葉町のように絶望的な自治体もあることがわかります。
原発事故がいったん起きたらどのような事が起こるのか、福島原発を見ても歴然としているも関らず、原発の再稼働を推進しようとしています。このシリーズを終わるにあたって、福島原発の現状がどうなっているのか、毎日新聞報道から見てみましょう。
2017年04月11日
「これが復興か 福島の今」を終えるにあたって
福島原発事故が起こって6年、そんなことはどこかへ行ってしまったかのように、原発再稼働が次々と行われています。
原発による電力は安いという迷信はすでに崩れてしまいました。そして原発が無くても日本の電力は大丈夫ということも証明されました。それなのに何故原発の再稼働を急ぐのでしょうか。
福島の現状はマスコミ報道からはあまり真相が伝わりません。そして、阿部首相が3.11追悼式で原発事故に全く触れなかったように、政府はできるだけ原発から国民の目をそらそうとしているとしか思えません。それはオリンピックという大事業が間近に控えているからだと言われています。
静岡県でも浜岡原発が運転停止中です。運転再開に向けて様々な取り組みが実施されているようですが、いつ来てもおかしくないと言われている大地震に対しての備えは万全なのでしょうか。
もし福島のような原発事故が発生したら、福島を大幅に上回る大災害になると言われています。
福島の現実は他人事ではない。自分たち自身の問題としてとらえなければならないという思いを強くした研修でした。
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448894991.html?1615381784
原発事故10年/3 見えぬ廃炉、費用青天井 現状の見積もり
毎日新聞 2021/3/4
水素爆発によって建屋の上部が吹き飛ばされ、鉄骨がむき出しになった1号機、灰色のカバーで覆われた4号機――。東京電力福島第1原発事故の発生から10年。現場には今でも生々しい爪痕が残る。2月16日午後、視察ツアーに参加した記者が海抜35メートルの高台から原子炉を見下ろしていると、10分ほどで左胸ポケットに入れた放射線測定器の甲高い機械音が鳴り響いた。1日に浴びられる放射線上限値の5分の1に到達した合図だ。
敷地内では約4000人態勢で廃炉、除染作業を進めており、白い防護服や防塵(ぼうじん)マスク、手袋、ゴーグルといった重装備の作業員らとすれ違う。除染が進み、敷地内の96%には一般的な作業服で立ち入れるようになったが、原子炉建屋付近の放射線量はなお高く、重装備でないと近づけない。
廃炉、賠償、除染など福島第1原発事故の処理にかかる費用は膨らむ一方だ。事故を起こした原発の廃炉や、避難を余儀なくされた住民への賠償などに巨額の費用がかかることは、事故直後から想像がついていた。原子力事業者の賠償責任を定めた原子力損害賠償法は、電力会社が無限責任を負うよう定めているが、「異常に巨大な天災」が原因の場合は免責になるという例外規定がある。「『想像していなかった地震と津波が起きたのだから、東電の責任ではない。そのため免責すべきだ』といろいろな人が言ってきた」。当時の首相、菅直人衆院議員は振り返る。当時の財務省担当者は「東電を免責すべきだとの意見の一方で、東電を法的整理(倒産)させるべきだとの声も強く、双方から責められた」と語る。
同省を中心に急ピッチで調整を進めた結果、国が一時的に廃炉や賠償費用を立て替え、東電が電気事業で得た利益で返済するなどの枠組みを作り上げた。東電は法的整理を回避したものの、2012年7月に国から1兆円の出資を受け実質国有化された。当時、内閣官房で制度の策定に関わった元経済産業省の北川慎介氏(62)は「法的整理は合法的に借金の棒引きができるが、それでは被災者への債務である賠償ができなくなる恐れがあった。国が税金で費用を支払うのも通らないと感じた」と振り返り、こう付け加えた。「今でもこれしかなかったと思っている」
しかし、高い放射線量に阻まれるなど廃炉は難航し、賠償や除染にかかる費用も膨らんでいった。16年には事故処理費用の見積もりを11兆円から22兆円に倍増せざるを得なくなり、賠償費用は東電を中心とした大手電力だけでなく、新たに参入した新電力にも負担を求めるなど枠組みの見直しも迫られた。電力会社の負担分は電気料金に上乗せされており、結果的に事故処理費用を背負っているのは国民だ。
東電はコスト削減などに全力を挙げているものの、収益改善の柱とされる柏崎刈羽原発の再稼働が想定以上に遅れている。4兆円と見積もる除染費用については、国が保有する東電ホールディングス株の売却益を充てる計画だが、同社の株価は事故前の6分の1と低迷。計画達成には株価が現在の約4倍の1500円になる必要があるが、見通しは立たない状況だ。
処理水も八方塞がり
さらに昨年12月、廃炉作業を点検する国の会議で東電が21年中に始める予定だった燃料デブリ取り出しの1年延長が報告された。英国企業に委託したロボットアームの製作が間に合わないためだ。21年1月には原子力規制委員会が、2、3号機の原子炉格納容器の上部に当たる部分が極めて高濃度の放射性物質に汚染されていたとの調査結果を公表。梶山弘志経産相は「廃炉作業はある程度の高線量下で実施されることを考慮して策定されている」として現行の廃炉スケジュールは見直さない姿勢を示したが、「今後も予測の難しい作業が想定される」と認める。
福島第1原発の敷地内には、原子炉建屋を取り囲むように青や灰色の円柱形のタンク約1050基(約124万トン)が並ぶ。タンクに貯蔵するのは汚染水から大部分の放射性物質を取り除いた汚染処理水だ。地下水や雨水が原子炉建屋に入り込むなど、現在も毎日140トンの汚染水が発生している。汚染水は22年度末には保管容量(137万トン)の上限に達する見通しで、政府はさらに浄化処理した水を海に放出する方向で検討しているが、地元漁業者の反発などで判断を先送りしている。
公益社団法人「日本経済研究センター」は、処理水に含まれるトリチウムの除去技術が確立された場合、除去に約40兆円かかるとして、現在8兆円と見込まれている廃炉費用が51兆円に膨らむと試算している。事故処理費用全体では81兆円に上る可能性があるという。小林辰男・主任研究員は「タンクを陸上保管し続ける場合、管理費は年間1500億円ずつかかる」と指摘する。
一般財団法人「日本エネルギー経済研究所」の村上朋子原子力グループマネジャーも「事故処理費用は年約1兆円以上ずつ増えるのではないか」と指摘。政府内からも「現在の金額では収まらなくなるのは必至だ」との見方が出ている。
ある経産省幹部は「処理費用のスキームはICU(集中治療室)のようなもの。いったん処置したが、悪くなればいずれ見直しが必要になる」と語る。同省からは「日本最大の電力会社がいつまでも国有化されていていいわけがない」として、廃炉や賠償は国の関与を強める一方で、東電は政府の脱炭素方針に基づき技術革新などを主導すべきだとの声もある。
処理費用は現状の見積もりより膨らむのが確実なのに、国はその不都合な真実を明かさず、責任の所在を曖昧にしたまま原発再稼働に力を入れ始めている。国際大の橘川武郎教授(エネルギー産業論)はこう話す。「果てしない廃炉、賠償といった事故処理を続ける会社は世界中のどこにもなく、いずれ国、東電ともに責任を放棄するのは目に見えている。原子力依存からの脱却なしにエネルギー政策の行く末を語れない時代に突入しているのではないか」【高橋祐貴、藤渕志保、工藤昭久】
https://mainichi.jp/articles/20210304/ddm/012/040/094000c
2021年03月10日
福島原発事故殻10年 これが復興か 福島の今・・・その6 双葉町、大熊町 富岡町 楢葉町
あす3月11日。東日本大震災、福島原発事故から10年を迎えようとしています。
私は2017年4月仲間とともに原発被災自治体を訪れ、ブログに記録してきました。
当時の記録を振り返りながら、いま現地はどうなっているのかを検証しています。
これが復興か 福島の今・・・その6 双葉町、大熊町 富岡町 楢葉町
これから福島原発付近を通過していきます。双葉町、大熊町あたりは放射線量が高いため、車から降りることはできません。
双葉町
通過中、ガードレールが次々と変化していきす。ガードレールの下にレンガ色のブロックがある場所は「帰還困難区域」であり、これから30〜40年人が住むことができない地域です。
少し走ると普通のガードレールが現れます。ここは「居住制限区域」であり、この地域の住民はこの時点では避難していますが、3月31日〜4月1日が来れば帰還区域となります。
こうしてまだら模様のように「帰還困難区域」と「居住制限区域」が出現してくるのです。
車の中で計測した線量は2.8ミリシーベルトでした
大熊町
福島第1原発への道路は封鎖されています。車の中で計測した放射線量は3〜4ミリシーベルトと非常に高くなっています。
この地域は除染がされていないようです。民家の玄関前にはバリケードがあり、入ることはできません
東京オリンピックの聖火ランナーがこの道路を走るという計画があるようですが、信じられない話です。
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448865660.html?1615336059
いつか帰る日のために
中間貯蔵施設の敷地 所有権は手放さず 双葉町 浪江町の現在
毎日新聞3月8日
双葉町
住民登録者 (現在の居住者ゼロ)
2011年3月11日 7140人
2021年1月31日 5773人
死亡 17人 行方不明4人 関連死 155人
浪江町
住民登録者
2011年3月11日 2万1542人
2021年1月31日 1万6650人
町内居住者
2021年1月31日 1579人
死亡 151人 行方不明31人 関連死 441人
img20210310_10060943.pdf
私は2017年4月仲間とともに原発被災自治体を訪れ、ブログに記録してきました。
当時の記録を振り返りながら、いま現地はどうなっているのかを検証しています。
これが復興か 福島の今・・・その6 双葉町、大熊町 富岡町 楢葉町
これから福島原発付近を通過していきます。双葉町、大熊町あたりは放射線量が高いため、車から降りることはできません。
双葉町
通過中、ガードレールが次々と変化していきす。ガードレールの下にレンガ色のブロックがある場所は「帰還困難区域」であり、これから30〜40年人が住むことができない地域です。
少し走ると普通のガードレールが現れます。ここは「居住制限区域」であり、この地域の住民はこの時点では避難していますが、3月31日〜4月1日が来れば帰還区域となります。
こうしてまだら模様のように「帰還困難区域」と「居住制限区域」が出現してくるのです。
車の中で計測した線量は2.8ミリシーベルトでした
大熊町
福島第1原発への道路は封鎖されています。車の中で計測した放射線量は3〜4ミリシーベルトと非常に高くなっています。
この地域は除染がされていないようです。民家の玄関前にはバリケードがあり、入ることはできません
東京オリンピックの聖火ランナーがこの道路を走るという計画があるようですが、信じられない話です。
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448865660.html?1615336059
いつか帰る日のために
中間貯蔵施設の敷地 所有権は手放さず 双葉町 浪江町の現在
毎日新聞3月8日
双葉町
住民登録者 (現在の居住者ゼロ)
2011年3月11日 7140人
2021年1月31日 5773人
死亡 17人 行方不明4人 関連死 155人
浪江町
住民登録者
2011年3月11日 2万1542人
2021年1月31日 1万6650人
町内居住者
2021年1月31日 1579人
死亡 151人 行方不明31人 関連死 441人
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2021年03月09日
「伊豆の真ん中から東北に送ろう!追悼・エール・絆の灯」3・11震災復興支援イベント
東日本大震災から10年となる11日に、伊豆市で3110個のキャンドルに火をともす「伊豆の真ん中から東北に送ろう!追悼・エール・絆の灯」3・11震災復興支援イベントが開催されます。
開催日 2012年3月11日
時間 17時から19時半
場所 伊豆市狩野川記念公園(入場制限あり)
3月9日 伊豆日日新聞
多賀城市から「ありがとう」
この追悼イベントの主催者の元に、宮城県多賀城市民からキャンドルに沿えるメッセージが届いた。
多賀城市の深谷市長、市民二人の計3人から届いた。「東日本大震災の復旧・復興に当たり、多大なるご支援、ご協力を賜りました皆様方に心から感謝申し上げます」「ありがとう 伊豆の国市の皆さん」「伊豆の国市ありがとう 一生涯忘れない!」などと書かれている。
img20210309_09170341.pdf
開催日 2012年3月11日
時間 17時から19時半
場所 伊豆市狩野川記念公園(入場制限あり)
3月9日 伊豆日日新聞
多賀城市から「ありがとう」
この追悼イベントの主催者の元に、宮城県多賀城市民からキャンドルに沿えるメッセージが届いた。
多賀城市の深谷市長、市民二人の計3人から届いた。「東日本大震災の復旧・復興に当たり、多大なるご支援、ご協力を賜りました皆様方に心から感謝申し上げます」「ありがとう 伊豆の国市の皆さん」「伊豆の国市ありがとう 一生涯忘れない!」などと書かれている。
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福島原発事故から10年 これが復興か 福島の今・・・その5 希望の牧場
2011年3月11日で福島原発事故が10年を迎えます。
2017年4月私は仲間とともに原発事故自治体を訪れ、ブログに記録しました。
先日、テレビでこの牧場の今を放映していました。
原発事故で住めなくなった牧場主はやむなく牛を残して避難せざるを得ませんでした。たくさんの牛が餓死しました。しかし、生き残った牛が希望の牧場で保護され今も生きています。牧場主が自分の牛を見つけました。呼びかけるとの牛が近寄ってきたのです。10年も前の飼い主を覚えていたのです。希望の牧場では今もたくさんの牛が飼われています。
希望の牧場とはどのような牧場でしょうか。
2017年04月09日
これが復興か 福島の今・・・その5 希望の牧場
浪江町には「希望の牧場」と名付けられた牧場があります。ここでは被爆によって市場に出荷できない牛300頭余を飼育し続けています。
私たちは希望の牧場を訪れました。
牧場主の吉沢さんは不在でしたが、ボランティアでジャーナリストの針ヶ谷さんが牛の世話をしていました。
広大な牧場にはあちこちに牛が点在していました。針ヶ谷さんがトラクターで大きな餌の塊を置いていくと牛たちがゆっくりと近づいて来て餌を食べ始めました。
希望の牧場は除染をしましたが、今日の線量は1ミリシーベルトを計測しました。震災時は20〜30ミリシーベルトもあったそうです。除染した土などは糞と共にプレコンパックに詰めて高く積んでありました。
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448845338.html?1615251102
希望の牧場・ふくしま=福島県浪江町周辺
被災地に残された命をつなぐ
東日本大震災の翌日、福島第一原発1号機の建屋が爆発し、避難指示の範囲がそれまでの原発3km圏内から20km圏内に拡大した。その後も、原発の建屋が次々と爆発。騒然とするなかで、住民は取るものも取りあえず避難を急ぐしかなく、すぐに町は無人となった。
エム牧場浪江農場は、原発から14kmの距離にある。その農場長であった吉沢正巳さんは、ホームセンターで買い物中に被災した。渋滞を避けながらなんとか牧場に帰りつくが、施設の一部は潰れ、牧草地は地割れを起こしていたという。それでも停電の中、発電器を回して牛に水を飲ませた。そして、カーナビのテレビからの情報で、福島第一原発の様子が変だということを知る。吉沢さんの牧場からは、遠くに原発の排気塔が見える。
「それでも牛を残して逃げる気はまったくなかったね。実際、逃げ出すほど怖いとは感じなかった。原発の中での作業はまさに決死隊だっただろうけど、ここなら影響はあっても、すぐに死ぬことはないなと思ってた」と吉沢さんは言う。建屋が爆発し、牧場に緊急の通信施設を置いた警察が避難した後も、吉沢さんは牧場に残り牛の面倒を見続けた。
http://jafmate.jp/jmp/311/iidate_namie/001.html
2017年4月私は仲間とともに原発事故自治体を訪れ、ブログに記録しました。
先日、テレビでこの牧場の今を放映していました。
原発事故で住めなくなった牧場主はやむなく牛を残して避難せざるを得ませんでした。たくさんの牛が餓死しました。しかし、生き残った牛が希望の牧場で保護され今も生きています。牧場主が自分の牛を見つけました。呼びかけるとの牛が近寄ってきたのです。10年も前の飼い主を覚えていたのです。希望の牧場では今もたくさんの牛が飼われています。
希望の牧場とはどのような牧場でしょうか。
2017年04月09日
これが復興か 福島の今・・・その5 希望の牧場
浪江町には「希望の牧場」と名付けられた牧場があります。ここでは被爆によって市場に出荷できない牛300頭余を飼育し続けています。
私たちは希望の牧場を訪れました。
牧場主の吉沢さんは不在でしたが、ボランティアでジャーナリストの針ヶ谷さんが牛の世話をしていました。
広大な牧場にはあちこちに牛が点在していました。針ヶ谷さんがトラクターで大きな餌の塊を置いていくと牛たちがゆっくりと近づいて来て餌を食べ始めました。
希望の牧場は除染をしましたが、今日の線量は1ミリシーベルトを計測しました。震災時は20〜30ミリシーベルトもあったそうです。除染した土などは糞と共にプレコンパックに詰めて高く積んでありました。
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448845338.html?1615251102
希望の牧場・ふくしま=福島県浪江町周辺
被災地に残された命をつなぐ
東日本大震災の翌日、福島第一原発1号機の建屋が爆発し、避難指示の範囲がそれまでの原発3km圏内から20km圏内に拡大した。その後も、原発の建屋が次々と爆発。騒然とするなかで、住民は取るものも取りあえず避難を急ぐしかなく、すぐに町は無人となった。
エム牧場浪江農場は、原発から14kmの距離にある。その農場長であった吉沢正巳さんは、ホームセンターで買い物中に被災した。渋滞を避けながらなんとか牧場に帰りつくが、施設の一部は潰れ、牧草地は地割れを起こしていたという。それでも停電の中、発電器を回して牛に水を飲ませた。そして、カーナビのテレビからの情報で、福島第一原発の様子が変だということを知る。吉沢さんの牧場からは、遠くに原発の排気塔が見える。
「それでも牛を残して逃げる気はまったくなかったね。実際、逃げ出すほど怖いとは感じなかった。原発の中での作業はまさに決死隊だっただろうけど、ここなら影響はあっても、すぐに死ぬことはないなと思ってた」と吉沢さんは言う。建屋が爆発し、牧場に緊急の通信施設を置いた警察が避難した後も、吉沢さんは牧場に残り牛の面倒を見続けた。
http://jafmate.jp/jmp/311/iidate_namie/001.html
2021年03月08日
福島原発事故から10年 これが復興か 福島の今・・・その4 浪江町
3月7日は東日本大震災の特集が多くのテレビチャンネルで放映されていました。
3月11日で東日本大震災、福島原発事故から10年を迎えます。
私は2017年に仲間とともに福島原発事故自治体を訪問し、ブログで記録しました。
2017年当時の私の記録を、2020年12月10日の浪江町のホームページよる浪江町の現状と比べてみました。
2017年04月08日
これが復興か 福島の今・・・その4 浪江町
2011年3月12日、東京電力福島第一原発の1号機建屋が水素爆発しました。原発から約8キロの福島県浪江町。大勢の住民が避難し厳しい避難生活が、この日から始まりました。
浪江町の地震被害民家を訪問しました。もちろんこの家の方は避難していて無人です。
震災当時は家の中はめちゃくちゃでしたが、行政やボランティアの方々により家の中はきれいになっています。
浪江町請戸地区
浪江町の請戸(うけど)漁港は被災前、漁船約100隻が操業し、2,300トンを超える漁獲量がありました。
今復興に向けて漁港の修復が行われ、また周辺では大規模な工業団地建設のための再開発が計画されています。
浪江町請戸地区には「請戸小学校の奇跡」といわれた小学校があります。請戸小学校は現在そのまま残されています。
この場所にはたくさんの民家がありましたが、津波ですべて流されましたが、コンクリート作りの建物は外観だけは残っています。
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448808957.html?1615123220
【初めての方へ】すぐわかる浪江町(なみえまち)の現況
2020年12月10日浪江町ホームページ
東京電力福島第一原子力発電所の事故のため、双葉郡の市町村の住民は避難を余儀なくされ、浪江町21,000人の町民は全国に散り散りになりました。その後、浪江町内の避難指示が継続する中、除染やインフラ復旧、生活基盤の再生が進められました。平成29年3月31日には、一部地域の避難指示が解除され、一部地域での居住ができるようになるなど、復興に向けた取組が進められています。一方、現在も多くの町民が福島県内外での避難生活を余儀なくされています.
東日本大震災当時の人口は、約21,500人でした。現在の住民登録数は約17,000人です。
浪江町内には約1,500人が居住しています。その他の町民は、現在も町外での避難生活を続けています。避難先は福島県内が約7割、県外が約3割(45都道府県)で、福島県内の仮設・借上げ住宅には、現在も約20人が居住しています。町は、町民の交流や戸別訪問を通じて、生活再建を支援するため「復興支援員」を福島県内外に配置しています。
令和2年9月に実施した住民意向調査では、「戻りたいと考えている」が10.8%、「まだ判断がつかない」が25.3%、「戻らないと決めている」が54.5%となっています。
https://www.town.namie.fukushima.jp/soshiki/2/namie-factsheet.html
3月11日で東日本大震災、福島原発事故から10年を迎えます。
私は2017年に仲間とともに福島原発事故自治体を訪問し、ブログで記録しました。
2017年当時の私の記録を、2020年12月10日の浪江町のホームページよる浪江町の現状と比べてみました。
2017年04月08日
これが復興か 福島の今・・・その4 浪江町
2011年3月12日、東京電力福島第一原発の1号機建屋が水素爆発しました。原発から約8キロの福島県浪江町。大勢の住民が避難し厳しい避難生活が、この日から始まりました。
浪江町の地震被害民家を訪問しました。もちろんこの家の方は避難していて無人です。
震災当時は家の中はめちゃくちゃでしたが、行政やボランティアの方々により家の中はきれいになっています。
浪江町請戸地区
浪江町の請戸(うけど)漁港は被災前、漁船約100隻が操業し、2,300トンを超える漁獲量がありました。
今復興に向けて漁港の修復が行われ、また周辺では大規模な工業団地建設のための再開発が計画されています。
浪江町請戸地区には「請戸小学校の奇跡」といわれた小学校があります。請戸小学校は現在そのまま残されています。
この場所にはたくさんの民家がありましたが、津波ですべて流されましたが、コンクリート作りの建物は外観だけは残っています。
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448808957.html?1615123220
【初めての方へ】すぐわかる浪江町(なみえまち)の現況
2020年12月10日浪江町ホームページ
東京電力福島第一原子力発電所の事故のため、双葉郡の市町村の住民は避難を余儀なくされ、浪江町21,000人の町民は全国に散り散りになりました。その後、浪江町内の避難指示が継続する中、除染やインフラ復旧、生活基盤の再生が進められました。平成29年3月31日には、一部地域の避難指示が解除され、一部地域での居住ができるようになるなど、復興に向けた取組が進められています。一方、現在も多くの町民が福島県内外での避難生活を余儀なくされています.
東日本大震災当時の人口は、約21,500人でした。現在の住民登録数は約17,000人です。
浪江町内には約1,500人が居住しています。その他の町民は、現在も町外での避難生活を続けています。避難先は福島県内が約7割、県外が約3割(45都道府県)で、福島県内の仮設・借上げ住宅には、現在も約20人が居住しています。町は、町民の交流や戸別訪問を通じて、生活再建を支援するため「復興支援員」を福島県内外に配置しています。
令和2年9月に実施した住民意向調査では、「戻りたいと考えている」が10.8%、「まだ判断がつかない」が25.3%、「戻らないと決めている」が54.5%となっています。
https://www.town.namie.fukushima.jp/soshiki/2/namie-factsheet.html
2021年03月07日
福島原発事故から10年 これが復興か 福島の今・・・その3 飯館村
2021年3月11日で東日本大震災から10年が経ちます。
復興五輪の名のもと、災害復興は進んでいるように見えます。しかし現実は箱モノ中心の事業が多く、地域住民の為の施策は進んでいないようです。
特に、福島原発事故の被災自治体の状況はいまでも深刻です。
私は仲間とともに2017年4月に原発被災自治体を訪れ、ブログに書き留めました。
2017年当時の様子と、今、原発被災地の現状を新聞報道から比べています。
2017年04月07日
これが復興か 福島の今・・・その3 飯館村
3月11日 続きです。
大震災の翌年2012年の3月11日、私は陸前高田市のある場所で開かれた追悼式に参加しました。大震災から1年目、津波の傷跡がいたるところに残っていいました。寒い寒い1日でした。被災された住民の方たち、そしてたくさんのボランティアの方たち、行政の方たち等が津波に飲み込まれた集落を見下ろせる高台に集まり、追悼式を行ったのです。大震災が発生した時刻、サイレンの音ともに参加者全員が手をつなぎ、黙とうしました。あちこちからすすり泣きの声が聞こえ、私も映像で見たあの凄まじい光景が頭の中にフラッシュバックしてきて、嗚咽が止まりませんでした。
あれから5年、2017年3月11日 午後2時15分より南相馬市民文化会館で「南相馬市東日本大震災追悼式」が開催されました。私たち10人も追悼式に参加しました。
夕方近づいてきましたが、今日は強行軍です。今、全村が避難している飯館村に向かいました。
飯館村へ行くには途中山の中を走ります。
こうした山の中のを通る道は道路から20mは徐線がされなければならないとされています。しかし、20mから先は全く除染がされていません。雨が降れば除染した箇所もすぐに汚染されてしまいます。山中に入っていくと放射線量がぐんぐん上がっていきました。
飯舘村は福島第一原発から約40キロメートルの地点に位置する、農業や畜産業を中心にした村で、事故前には約6000人が住んでいた。原発の補助金は出ていません。事故発生後、すぐには避難指示が出なかったが、原発の爆発で撒き散らされた放射性物質が強い風に乗り大量に浴びました。
飯館村に入ると、いたるところに放射能汚染物質を入れているプレコンパックの保管場所が現れました。このプレコンパックの耐用年数は5〜7年といわれています。所々破れ、雑草が生えているのも見受けられました。。
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448779942.html?1615082292
「帰還困難区域」除染なき避難指示解除再検討へ 福島 飯舘村
2021年1月27日 NHK NEWS WEB
国は先月、原発事故に伴って今も避難指示が続いている福島県の「帰還困難区域」のうち、解除のめどが立っていない地域について、除染をしなくても解除できる制度を新たに導入しましたが、こうした対応を要望していた福島県飯舘村が制度を利用しないことも視野に、今後の対応の検討を始めたことがわかりました。
福島県では今も立ち入りが厳しく制限されている「帰還困難区域」が7つの市町村に残っています。
これまでは「除染作業が十分に進んでいること」などが、避難指示解除の要件になっていましたが、飯舘村の要望を受けて、国の原子力災害対策本部は先月25日、地元自治体の強い意向があり、住民の日常的な生活が想定されていないなどの要件が満たされれば、除染をしなくても避難指示を解除できる仕組みを新たに設けました。
しかし、帰還困難区域となっている村内の長泥地区の住民の間で「除染なき避難指示解除」を行った後の姿に対する認識に幅があり、除染を行ったうえでの解除を望む人も一定程度いることから、飯舘村は「除染なき避難指示解除」を可能にする新たな制度を利用しないことも視野に、今後の対応の検討を進めることになりました。長泥地区の住民の意見を改めて集約したうえで、結論を出すということです。
長泥地区では全体の17%が早期に避難指示の解除を目指す「特定復興再生拠点区域」となっていて、令和5年春までの避難指示解除を目指していますが「拠点区域外」については解除のめどは立っていません。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210127/k10012836201000.html
復興五輪の名のもと、災害復興は進んでいるように見えます。しかし現実は箱モノ中心の事業が多く、地域住民の為の施策は進んでいないようです。
特に、福島原発事故の被災自治体の状況はいまでも深刻です。
私は仲間とともに2017年4月に原発被災自治体を訪れ、ブログに書き留めました。
2017年当時の様子と、今、原発被災地の現状を新聞報道から比べています。
2017年04月07日
これが復興か 福島の今・・・その3 飯館村
3月11日 続きです。
大震災の翌年2012年の3月11日、私は陸前高田市のある場所で開かれた追悼式に参加しました。大震災から1年目、津波の傷跡がいたるところに残っていいました。寒い寒い1日でした。被災された住民の方たち、そしてたくさんのボランティアの方たち、行政の方たち等が津波に飲み込まれた集落を見下ろせる高台に集まり、追悼式を行ったのです。大震災が発生した時刻、サイレンの音ともに参加者全員が手をつなぎ、黙とうしました。あちこちからすすり泣きの声が聞こえ、私も映像で見たあの凄まじい光景が頭の中にフラッシュバックしてきて、嗚咽が止まりませんでした。
あれから5年、2017年3月11日 午後2時15分より南相馬市民文化会館で「南相馬市東日本大震災追悼式」が開催されました。私たち10人も追悼式に参加しました。
夕方近づいてきましたが、今日は強行軍です。今、全村が避難している飯館村に向かいました。
飯館村へ行くには途中山の中を走ります。
こうした山の中のを通る道は道路から20mは徐線がされなければならないとされています。しかし、20mから先は全く除染がされていません。雨が降れば除染した箇所もすぐに汚染されてしまいます。山中に入っていくと放射線量がぐんぐん上がっていきました。
飯舘村は福島第一原発から約40キロメートルの地点に位置する、農業や畜産業を中心にした村で、事故前には約6000人が住んでいた。原発の補助金は出ていません。事故発生後、すぐには避難指示が出なかったが、原発の爆発で撒き散らされた放射性物質が強い風に乗り大量に浴びました。
飯館村に入ると、いたるところに放射能汚染物質を入れているプレコンパックの保管場所が現れました。このプレコンパックの耐用年数は5〜7年といわれています。所々破れ、雑草が生えているのも見受けられました。。
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448779942.html?1615082292
「帰還困難区域」除染なき避難指示解除再検討へ 福島 飯舘村
2021年1月27日 NHK NEWS WEB
国は先月、原発事故に伴って今も避難指示が続いている福島県の「帰還困難区域」のうち、解除のめどが立っていない地域について、除染をしなくても解除できる制度を新たに導入しましたが、こうした対応を要望していた福島県飯舘村が制度を利用しないことも視野に、今後の対応の検討を始めたことがわかりました。
福島県では今も立ち入りが厳しく制限されている「帰還困難区域」が7つの市町村に残っています。
これまでは「除染作業が十分に進んでいること」などが、避難指示解除の要件になっていましたが、飯舘村の要望を受けて、国の原子力災害対策本部は先月25日、地元自治体の強い意向があり、住民の日常的な生活が想定されていないなどの要件が満たされれば、除染をしなくても避難指示を解除できる仕組みを新たに設けました。
しかし、帰還困難区域となっている村内の長泥地区の住民の間で「除染なき避難指示解除」を行った後の姿に対する認識に幅があり、除染を行ったうえでの解除を望む人も一定程度いることから、飯舘村は「除染なき避難指示解除」を可能にする新たな制度を利用しないことも視野に、今後の対応の検討を進めることになりました。長泥地区の住民の意見を改めて集約したうえで、結論を出すということです。
長泥地区では全体の17%が早期に避難指示の解除を目指す「特定復興再生拠点区域」となっていて、令和5年春までの避難指示解除を目指していますが「拠点区域外」については解除のめどは立っていません。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210127/k10012836201000.html
2021年03月06日
福島原発事故から10年 これが復興か 福島の今 その2・・・ 八方内仮設住宅
3月11日で福島原発事故から10年が経とうとしています。
私は2017年4月に福島原発事故被災地を仲間とともに訪れました。その記録をこのブログで書き留めました。
当時の記録を改めて振り返りながら、2021年現在の原発を巡る新聞報道を参考にしながら当時と現在がどのように変化しているのかを
見比べてみたいと思います。
2017年04月06日
これが復興か 福島の今 その2・・・ 八方内仮設住宅
南相馬市には浪江町から避難してきた方々が住んでいます。集会場で交流会を行いました。仮設住宅に住んでいる方、復興住宅に住んでいる方が参加してくださいました。
原発事故の後、避難命令が出て、各地を転々とせざるを得なくなった。引っ越し回数を聞くと5〜6回と言う方が多かった。
帰還困難区域に自宅がある方・ボランティアの方々に助けられ、家はきれいなっているので帰りたいと思う。しかし帰れない。自宅を見に行ったが2時間しかいられなかった。浪江町の真ん中は放射線量が高く入ることができない。ネズミやイノシシの被害も多く、泥棒にも入られた。
仮設住宅から復興住宅に移るとすべて自己負担となり、補助金は打ち切られる。
復興住宅は高層(5階建)の為、高齢者には困る。ここなら住民の顔が見えるが、復興住宅に行ったらばらばらになってしまうのではないかという不安もある。夜はエレベーターが止まってしまう。買物には2時間もかかる
復興住宅に移っても自宅は壊すことができない。家が無くなれば税金が高くなってしまう。
全文は
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448757380.html?1614948185
毎日新聞 2021/2/25
茨城・前東海村長、脱原発の訴え 「日本は変われなかった」
東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から間もなく10年。「原子力発祥の地」ともいわれる東海村で村長として原発事故と臨界事故を経験した村上達也氏(78)が毎日新聞のインタビューに応じた。原発事故を主なきっかけとして「脱原発」を訴えてきた村上氏は「事故を経験しても日本は変われなかった」と振り返った。【聞き手・鳥井真平】
――福島の原発事故から10年が経過します。
◆このとき、村役場の朝礼で職員に「人に冷たく無能な国に原発を持つ資格はない」と伝えた。村は1999年に核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」の臨界事故も経験した。臨界事故も原発事故も基本的に同じだ。立地地域には人が住んでいて、文化もある。(混乱する国などの対応を目にして)経済発展を優先し、住民に配慮がない国なのだと思った。
――事故は「安全神話」「人災」と批判されました。
◆原発事故は起こるべくして起きた。人工的に建設したものには技術的な面で穴がある。それを想定して利用するのは許せるが、「完璧な技術で防護策はとれている」などと説明してきたのは、寓話(ぐうわ)だ。電力会社は安全神話を作り上げてきた。
県内にも津波が押し寄せた。東北の三陸地方のように海岸線が入り組んでいないため、私も鹿島灘に津波は来ないと考えていた。完全なる不明で、間違いだった。
――事故は原子力政策の転換点になり得る出来事でした。
◆日本は地球温暖化対策の必要性から、原発の復権を唱える「原子力ルネサンス」を叫んで原子力を推進してきた。しかし、「地震大国」と呼ばれる日本で原発を稼働させ続けるのは無理があった。もっと慎重になるべきだったし、国を挙げて推進してきたことを反省し、見直すべきだった。
しかし、日本は変われなかった。政府は現行のエネルギー基本計画で、全電源に占める原発比率を2030年度に20〜22%とする目標を設定している。核燃料を再利用する「核燃料サイクル政策」の中核施設だった高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の廃炉が決まったのに、国は核燃料サイクルの看板を下ろさず、いまだに続ける方針を示している。
日本は原発事故を機に原子力エネルギーに頼らない国に変わるべきだったが、変われるチャンスを逃してしまった。「一度決めてしまったものは引き返せない」という日本的な文化を感じる。
――原発の再稼働が続いています。
◆立地自治体の首長が再稼働に同意することが理解できない。原発事故から何も学ぼうとしていない。
東海村には日本原子力発電東海第2原発があるが、30キロ圏内に住む住民は国内最多の約94万人。(原発事故の避難状況を踏まえれば)避難計画通りの避難はできないだろう。94万人を避難させることができるなんてばかげた話だ。実行できないことを、できるかのように作るのは、時間と労力、税金の無駄と言える。人口が多い場所での再稼働はあってはならない。
村上達也(むらかみ・たつや)氏
1943年、東海村出身。66年一橋大社会学部卒。同年常陽銀行に入行し、ひたちなか支店長などを経て97年から東海村長を4期務めた。99年の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」臨界事故では、国内初の住民避難要請を決断。2011年に起きた、東日本大震災による東京電力福島第1原発事故後から「脱原発」を訴えている。
https://mainichi.jp/articles/20210225/k00/00m/040/017000c
私は2017年4月に福島原発事故被災地を仲間とともに訪れました。その記録をこのブログで書き留めました。
当時の記録を改めて振り返りながら、2021年現在の原発を巡る新聞報道を参考にしながら当時と現在がどのように変化しているのかを
見比べてみたいと思います。
2017年04月06日
これが復興か 福島の今 その2・・・ 八方内仮設住宅
南相馬市には浪江町から避難してきた方々が住んでいます。集会場で交流会を行いました。仮設住宅に住んでいる方、復興住宅に住んでいる方が参加してくださいました。
原発事故の後、避難命令が出て、各地を転々とせざるを得なくなった。引っ越し回数を聞くと5〜6回と言う方が多かった。
帰還困難区域に自宅がある方・ボランティアの方々に助けられ、家はきれいなっているので帰りたいと思う。しかし帰れない。自宅を見に行ったが2時間しかいられなかった。浪江町の真ん中は放射線量が高く入ることができない。ネズミやイノシシの被害も多く、泥棒にも入られた。
仮設住宅から復興住宅に移るとすべて自己負担となり、補助金は打ち切られる。
復興住宅は高層(5階建)の為、高齢者には困る。ここなら住民の顔が見えるが、復興住宅に行ったらばらばらになってしまうのではないかという不安もある。夜はエレベーターが止まってしまう。買物には2時間もかかる
復興住宅に移っても自宅は壊すことができない。家が無くなれば税金が高くなってしまう。
全文は
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448757380.html?1614948185
毎日新聞 2021/2/25
茨城・前東海村長、脱原発の訴え 「日本は変われなかった」
東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から間もなく10年。「原子力発祥の地」ともいわれる東海村で村長として原発事故と臨界事故を経験した村上達也氏(78)が毎日新聞のインタビューに応じた。原発事故を主なきっかけとして「脱原発」を訴えてきた村上氏は「事故を経験しても日本は変われなかった」と振り返った。【聞き手・鳥井真平】
――福島の原発事故から10年が経過します。
◆このとき、村役場の朝礼で職員に「人に冷たく無能な国に原発を持つ資格はない」と伝えた。村は1999年に核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」の臨界事故も経験した。臨界事故も原発事故も基本的に同じだ。立地地域には人が住んでいて、文化もある。(混乱する国などの対応を目にして)経済発展を優先し、住民に配慮がない国なのだと思った。
――事故は「安全神話」「人災」と批判されました。
◆原発事故は起こるべくして起きた。人工的に建設したものには技術的な面で穴がある。それを想定して利用するのは許せるが、「完璧な技術で防護策はとれている」などと説明してきたのは、寓話(ぐうわ)だ。電力会社は安全神話を作り上げてきた。
県内にも津波が押し寄せた。東北の三陸地方のように海岸線が入り組んでいないため、私も鹿島灘に津波は来ないと考えていた。完全なる不明で、間違いだった。
――事故は原子力政策の転換点になり得る出来事でした。
◆日本は地球温暖化対策の必要性から、原発の復権を唱える「原子力ルネサンス」を叫んで原子力を推進してきた。しかし、「地震大国」と呼ばれる日本で原発を稼働させ続けるのは無理があった。もっと慎重になるべきだったし、国を挙げて推進してきたことを反省し、見直すべきだった。
しかし、日本は変われなかった。政府は現行のエネルギー基本計画で、全電源に占める原発比率を2030年度に20〜22%とする目標を設定している。核燃料を再利用する「核燃料サイクル政策」の中核施設だった高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の廃炉が決まったのに、国は核燃料サイクルの看板を下ろさず、いまだに続ける方針を示している。
日本は原発事故を機に原子力エネルギーに頼らない国に変わるべきだったが、変われるチャンスを逃してしまった。「一度決めてしまったものは引き返せない」という日本的な文化を感じる。
――原発の再稼働が続いています。
◆立地自治体の首長が再稼働に同意することが理解できない。原発事故から何も学ぼうとしていない。
東海村には日本原子力発電東海第2原発があるが、30キロ圏内に住む住民は国内最多の約94万人。(原発事故の避難状況を踏まえれば)避難計画通りの避難はできないだろう。94万人を避難させることができるなんてばかげた話だ。実行できないことを、できるかのように作るのは、時間と労力、税金の無駄と言える。人口が多い場所での再稼働はあってはならない。
村上達也(むらかみ・たつや)氏
1943年、東海村出身。66年一橋大社会学部卒。同年常陽銀行に入行し、ひたちなか支店長などを経て97年から東海村長を4期務めた。99年の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」臨界事故では、国内初の住民避難要請を決断。2011年に起きた、東日本大震災による東京電力福島第1原発事故後から「脱原発」を訴えている。
https://mainichi.jp/articles/20210225/k00/00m/040/017000c
2021年03月05日
福島原発事故から10年 これが復興か・福島の今 その1
東日本大震災、そして福島原発事故から10年が経とうとしています。
復興五輪の掛け声とは裏腹に、東日本大震災からの復興は道半ばであり、原発事故で故郷を失った住民の皆様の帰還はいまだもって困難な状況にあると報道されています。
私は、2017年、仲間とともに原発事故被害地を訪ねました。その記録が私のブログに残っています。
2021年3月11日を前にして、2017年に記した記録をふり返ってみたいと思います。
東日本大震災、福島原発事故を風化させない為にも関心のある方はお読みください。
2017年04月05日
これが復興か 福島の今 その1 ・・・南相馬市小高地区
3月10日夜、私は三島駅北口からマイクロバスに乗り込みました。浜松市、藤枝市、静岡市、伊豆市、御殿場市からの参加者10名を乗せたマイクロバスは、深夜の高速道路を 福島県に向かって走り続けました。
途中で仮眠をとり、福島市南相馬市小高地区に到着したのは早朝でした。
今日から2日間の「東日本大震災支援防災研修」がスタートしました。
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448728787.html?1614861908
復興五輪の掛け声とは裏腹に、東日本大震災からの復興は道半ばであり、原発事故で故郷を失った住民の皆様の帰還はいまだもって困難な状況にあると報道されています。
私は、2017年、仲間とともに原発事故被害地を訪ねました。その記録が私のブログに残っています。
2021年3月11日を前にして、2017年に記した記録をふり返ってみたいと思います。
東日本大震災、福島原発事故を風化させない為にも関心のある方はお読みください。
2017年04月05日
これが復興か 福島の今 その1 ・・・南相馬市小高地区
3月10日夜、私は三島駅北口からマイクロバスに乗り込みました。浜松市、藤枝市、静岡市、伊豆市、御殿場市からの参加者10名を乗せたマイクロバスは、深夜の高速道路を 福島県に向かって走り続けました。
途中で仮眠をとり、福島市南相馬市小高地区に到着したのは早朝でした。
今日から2日間の「東日本大震災支援防災研修」がスタートしました。
http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448728787.html?1614861908