2021年03月05日

福島原発事故から10年 これが復興か・福島の今 その1

東日本大震災、そして福島原発事故から10年が経とうとしています。
復興五輪の掛け声とは裏腹に、東日本大震災からの復興は道半ばであり、原発事故で故郷を失った住民の皆様の帰還はいまだもって困難な状況にあると報道されています。
私は、2017年、仲間とともに原発事故被害地を訪ねました。その記録が私のブログに残っています。
2021年3月11日を前にして、2017年に記した記録をふり返ってみたいと思います。
東日本大震災、福島原発事故を風化させない為にも関心のある方はお読みください。

2017年04月05日


これが復興か 福島の今 その1 ・・・南相馬市小高地区


3月10日夜、私は三島駅北口からマイクロバスに乗り込みました。浜松市、藤枝市、静岡市、伊豆市、御殿場市からの参加者10名を乗せたマイクロバスは、深夜の高速道路を 福島県に向かって走り続けました。
途中で仮眠をとり、福島市南相馬市小高地区に到着したのは早朝でした。

今日から2日間の「東日本大震災支援防災研修」がスタートしました。

http://iizusiseirepo-to.seesaa.net/article/448728787.html?1614861908


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2019年03月13日

行方不明なお2533人 被災地で早朝から祈り 東日本大震災8年

毎日新聞2019年3月11日

東日本大震災は11日、発生から8年の朝を迎えた。津波で多くの犠牲者を出した東北地方の沿岸部では、冷たい雨が降る中、早朝から祈りをささげる人の姿があった。震災関連死を含め1万9598人が亡くなり、いまだに2533人の行方が分かっていない。この日は地震が発生した午後2時46分を中心に各地で追悼行事が開かれる。被災地以外では震災の風化が進む中、あの日に思いをはせる大切な一日となる。

https://mainichi.jp/articles/20190311/k00/00m/040/073000c?fm=mnm
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2017年04月11日

「これが復興か 福島の今」を終えるにあたって

6回にわたった「これが復興か、福島の今」の連載は終了いたしました。
この企画をしてくださった田端さん、そして後援をしてくださった徳洲会病院さん、本当にありがとうございました。

田端さんの呼びかけは「原発に反対とか賛成ではなく、今の福島の現実を知ってもらい、その上で考えてほしい」というものでした。
私は、東日本大震災の津波被害地域は行ったことがありましたが、福島の原発事故の被害地域へは行ったことがありませんでした。今回参加した目的は、原発事故が起こったら、いったいどうなるのだろうかということを、自分の目で確かめたかったからです。
2日間、駆け足でしたが、マスコミ等では知ることのできない原発事故の悲惨な現実を見聞きすることができました。この貴重な経験を自分だけでなく、多くの方々に知ってほしいという思いで6回にわたって連載いたしました。
今回の連載を読まれた方が、福島の現状について少しでも理解していただければ幸いです。

福島原発事故が起こって6年、そんなことはどこかへ行ってしまったかのように、原発再稼働が次々と行われています。
原発による電力は安いという迷信はすでに崩れてしまいました。そして原発が無くても日本の電力は大丈夫ということも証明されました。それなのに何故原発の再稼働を急ぐのでしょうか。

福島の現状はマスコミ報道からはあまり真相が伝わりません。そして、阿部首相が3.11追悼式で原発事故に全く触れなかったように、政府はできるだけ原発から国民の目をそらそうとしているとしか思えません。それはオリンピックという大事業が間近に控えているからだと言われています。

静岡県でも浜岡原発が運転停止中です。運転再開に向けて様々な取り組みが実施されているようですが、いつ来てもおかしくないと言われている大地震に対しての備えは万全なのでしょうか。
もし福島のような原発事故が発生したら、福島を大幅に上回る大災害になると言われています。
福島の現実は他人事ではない。自分たち自身の問題としてとらえなければならないという思いを強くした研修でした。

長文の連載を読んでくださってありがとうございました。







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2017年04月10日

これが復興か 福島の今・・・その6 双葉町、大熊町 富岡町 楢葉町

これから福島原発付近を通過していきます。双葉町、大熊町あたりは放射線量が高いため、車から降りることはできません。

双葉町

通過中、ガードレールが次々と変化していきす。ガードレールの下にレンガ色のブロックがある場所は「帰還困難区域」であり、これから30〜40年人が住むことができない地域です。
少し走ると普通のガードレールが現れます。ここは「居住制限区域」であり、この地域の住民はこの時点では避難していますが、3月31日〜4月1日が来れば帰還区域となります。
こうしてまだら模様のように「帰還困難区域」と「居住制限区域」が出現してくるのです。
車の中で計測した線量は2.8ミリシーベルトでした

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大熊町

福島第1原発への道路は封鎖されています。車の中で計測した放射線量は3〜4ミリシーベルトと非常に高くなっています。
この地域は除染がされていないようです。民家の玄関前にはバリケードがあり、入ることはできません
東京オリンピックの聖火ランナーがこの道路を走るという計画があるようですが、信じられない話です。

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道路を挟んで左・「帰還困難区域」、右・「居住制限区域」が分かれています。どうして?放射能は道路に関係なく拡散していくのでは・・・

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富岡町

夜の森公園の桜並木はテレビでも幾度となく報道されていました。道路沿いの桜の木は放射性物質がとどまり、放射線量が高まるということで、2m位まで樹皮がはがされました。

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桜並木はすぐ先でバリケードで遮られ、その先は「帰還困難区域」となっています。バリケードのこちら側は「居住制限区域」となっており、4月1日には帰還ができることになっています。避難解除となると、この地域の住民には補助金が打ち切られます。バリケードを境に「補助金アリ」と「補助金ナシ」の地域に分断されるのです

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この時点で放射線量は1.7ミリシーベルトを計測していました。


楢葉町

2年前に居住制限地域が撤廃されました。しかし7000人いた住民のうち帰還したのは10%ほどしかいないのが現実です。
南相馬市を抜けてからの道路沿いには商店は全くありませんでした。ようやく見つけたコンビニで昼食を買うことができました。ここまで来ると放射線量は0.1ミリシーベルトと一気に下がっていました。それでも帰還者は10%しかいません。

いわき市

いわき市の道の駅でしばしの休憩をしました。マイクロバスのガソリンが底をつきかけていましたが、ガソリンスタンドは
一軒も営業していませんでした。いわき市に入ってようやく給油できました。

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2017年04月09日

これが復興か 福島の今・・・その5 希望の牧場

3月12日・続きです。

浪江町請戸地区から希望牧場に向かいました。
途中、帰還困難区域への通行止めの箇所が現れました。帰還困難区域はガードレールの下の茶色のブロックが目印となります。

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希望の牧場

浪江町には「希望の牧場」と名付けられた牧場があります。ここでは被爆によって市場に出荷できない牛300頭余を飼育し続けています。
私たちは希望の牧場を訪れました。

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牧場主の吉沢さんは不在でしたが、ボランティアでジャーナリストの針ヶ谷さんが牛の世話をしていました。
広大な牧場にはあちこちに牛が点在していました。針ヶ谷さんがトラクターで大きな餌の塊を置いていくと牛たちがゆっくりと近づいて来て餌を食べ始めました。

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希望の牧場は除染をしましたが、今日の線量は1ミリシーベルトを計測しました。震災時は20〜30ミリシーベルト
もあったそうです。除染した土などは糞と共にプレコンパックに詰めて高く積んでありました。

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帰還困難区域に指定された地域で牛の世話をし続ける吉沢さんを3年間取材し続けた畠山理仁さんのルポルタージュをお読みください。

東京電力福島第一原子力発電所から北北西に14キロ。福島県双葉郡浪江町には、原発事故によって設定された旧警戒区域(原発から20km圏内)に取り残された牛を生かし続ける牧場がある。
 「希望の牧場」――。そう名付けられた牧場では、被曝によって決して市場に出荷されることがなくなった牛たち300頭以上が今も命をつないでいる。
 私が南相馬市小高区と浪江町の境目に位置するこの牧場を初めて訪ねたのは2011年12月のことだ。寒い冬の早朝、牛舎で牛たちの世話をしながら牧場の主である吉沢正巳(60歳)はこう言った。
「あの原発事故でおれたちの浪江町は『日本のチェルノブイリ』のようになってしまったんだ。もう二度と浪江町には帰れないかもしれないと思った。『希望』という名前はそんな深い絶望の中でつけたんだ」
 絶望の中にあるのに、なぜ「希望」なのか。その問いかけに吉沢はこう答えた。
「誰もいなくなった絶望の町でも、ここの牛たちだけは元気に生き続けている。それこそが希望なんだ。それからもう一つ。世の中の人たちに対して『あなたにとっての希望ってなに?』と問いかけたい気持ち、考えてほしい気持ちもあったんだ」


希望の牧場・吉沢正巳の訴え(前編)


希望の牧場・吉沢正巳の訴え(後編)

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2017年04月08日

これが復興か 福島の今・・・その4 浪江町

3月11日夜・二本松市にある「福島県男女共生センター」に到着しました。長い長い1日でした。この施設は、比較的新しく、快適なセンターでした。風邪気味で、ぐったりと疲れ、コンビニ弁当の夕食を食べ、すぐに寝ていまいました。

3月12日

二本松市から南相馬市に戻り浪江町に向かいました。

浪江町

2011年3月12日、東京電力福島第一原発の1号機建屋が水素爆発しました。原発から約8キロの福島県浪江町。大勢の住民が避難し厳しい避難生活が、この日から始まりました。

浪江町の地震被害民家を訪問しました。もちろんこの家の方は避難していて無人です。
震災当時は家の中はめちゃくちゃでしたが、行政やボランティアの方々により家の中はきれいになっています。

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震災当時の写真が残されています。

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周りの住居も誰も住んでいません。


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浪江町請戸地区

浪江町の請戸(うけど)漁港は被災前、漁船約100隻が操業し、2,300トンを超える漁獲量がありました。

この場所にはたくさんの民家がありましたが、津波ですべて流されましたが、コンクリート作りの建物は外観だけは残っています。

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今復興に向けて漁港の修復が行われ、また周辺では大規模な工業団地建設のための再開発が計画されています。

浪江町請戸地区には「請戸小学校の奇跡」といわれた小学校があります。請戸小学校は現在そのまま残されています。

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時計は当時の時間で止まったままです。

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大津波から逃げ切った請戸小学校の生徒たちの行動を、そえだ勝さんがブログで書かれていますので引用させていただきます。

請戸小は海に面する場所にあったため、もろに津波に襲われたものの、誰一人飲み込まれることなく、全員が生還できました。

その際、先生は全員を学校から数キロ離れた高台に逃げるよう指示し、高学年はもちろん、低学年も火事場の馬鹿力でなんとか全員がそこに到達し、一命をとりとめました。

さて、この出来事ですが、何が奇跡かというと、上図の赤丸の部分、「請戸城跡」が高台の位置ですが、実はそこに誘導したのが先生ではなく、「生徒」であったのです。

もちろん、先生はその城跡が安全であることを普段からご存知であり、先生の誘導でそこに生徒たちは向かいましたが、その途中、そこに至る通常ルートには津波が迫り、行く手を阻まれました。

 一行が途方に暮れる中、その城跡でよく遊びまわっていた生徒が「僕が案内する」と言って、通常にはない山道を案内し、間一髪のところで全員が城跡に登ることができ事なきを得ました。

その後、先生たちは「我が子に早く会いたい」と焦って連絡をしてくる保護者に次のように伝えました。
「絶対に高台付近には近づくな。波が引かなければあなた達が死ぬ。私たちが最後まで守る。自分の無事を考えてくれ」と。
そして、津波が落ち着いてから、無事に保護者と生徒たちが再会へとこぎ着けました。

 子供が外で元気に遊んでいたからこそ道が開け、一方、先生もその子に運命を託した勇気があり、そして、親を早めに迎えに来させなかった正しい判断があったからこそ、死亡者ゼロという素晴らしい結果に繋がった思います。

 やはり、大人だけでなく子供も地域を知るということは大切であり、そして、何よりも先生をはじめとする、大人と子供の信頼関係が極めて重要である、ということを命懸けで私たちに教えてくれた出来事でした。(そえだ勝ブログより)

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2017年04月07日

これが復興か 福島の今・・・その3 飯館村

3月11日 続きです。

大震災の翌年2012年の3月11日、私は陸前高田市のある場所で開かれた追悼式に参加しました。大震災から1年目、津波の傷跡がいたるところに残っていいました。寒い寒い1日でした。被災された住民の方たち、そしてたくさんのボランティアの方たち、行政の方たち等が津波に飲み込まれた集落を見下ろせる高台に集まり、追悼式を行ったのです。大震災が発生した時刻、サイレンの音ともに参加者全員が手をつなぎ、黙とうしました。あちこちからすすり泣きの声が聞こえ、私も映像で見たあの凄まじい光景が頭の中にフラッシュバックしてきて、嗚咽が止まりませんでした。

あれから5年、2017年3月11日 午後2時15分より南相馬市民文化会館で「南相馬市東日本大震災追悼式」が開催されました。私たち10人も追悼式に参加しました。

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桜井南相馬市長の式辞の後。映像による国主催の追悼式が中継されました。
安倍首相の式辞の中に、福島原発事故のことが全く触れられなかったこと、そして追悼の辞や遺族代表の言葉は男性のみで、女性が一人もいなかったことも強く印象に残りました。
震災から6年、追悼行事が形式的なってきていると思えたのは私だけでなかったようです。翌日の福島民報にもそんな記事がのっていました。

夕方近づいてきましたが、今日は強行軍です。今、全村が避難している飯館村に向かいました。
飯館村へ行くには途中山の中を走ります。
こうした山の中のを通る道は道路から20mは徐線がされなければならないとされています。しかし、20mから先は全く除染がされていません。雨が降れば除染した箇所もすぐに汚染されてしまいます。山中に入っていくと放射線量がぐんぐん上がっていきました。

飯舘村は福島第一原発から約40キロメートルの地点に位置する、農業や畜産業を中心にした村で、事故前には約6000人が住んでいた。原発の補助金は出ていません。事故発生後、すぐには避難指示が出なかったが、原発の爆発で撒き散らされた放射性物質が強い風に乗り大量に浴びました。

飯館村に入ると、いたるところに放射能汚染物質を入れているプレコンパックの保管場所が現れました。このプレコンパックの耐用年数は5〜7年といわれています。所々破れ、雑草が生えているのも見受けられました。

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飯館村で牛を飼育していた酪農家・長谷川さん宅を見せてもらいました。今は避難してここには居住していません。家のすぐ前にプレコンパックの山。近づくと放射線量がぐっと上昇しました。田畑は除染されていても、山は除染ができないため、雨が降ればま流れ出た水で放射能汚染されてしまうため、農作物の栽培は不可能だと言われています。



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プレコンパックから見た長谷川さん宅。避難が解除されても戻れますか。

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飯館村の田畑にはいたるところにプレコンパックと大々的ななソーラ発電施設が設置されていました。

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飯館村役場です。3月31日の期間に向けての準備が行われています。
役場の近くに老人介護施設があります。ここの入所者は避難しないでここにとどまりました。介護職員は飯館村の外から毎日通っています。

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飯館村の中心部、今は全く人が住んでいませんが、大規模な公共施設の建設が続いています。避難が解除されてもどれだけの住民が帰還するのわからない中、無駄な投資にならないかとの批判もされているようです。




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2017年04月06日

これが復興か 福島の今 その2・・・ 八方内仮設住宅

これが復興か 福島の今 その2・・・ 八方内仮設住宅

南相馬市役所駐車場で老健ホームの職員さんと待ち合わせ。持参した「特大のタイ焼き」の差し入れをしました。世界で一番大きいタイ焼き、静岡県西部では売っているようです、初めて知りました。


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八方内仮設住宅で住民の皆さんと交流

浪江町から避難してきた方々が住んでいます。70軒ほどありますが、転居した方が多く、今では20〜30軒ほどが住んでいます。転居先は建設が進んでいる復興住宅が主なようです。仮設住宅のすぐ隣でも復興住宅が建設中でした。

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集会場で交流会を行いました。仮設住宅に住んでいる方、復興住宅に住んでいる方が参加してくださいました。

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原発事故の後、避難命令が出て、各地を転々とせざるを得なくなった。引っ越し回数を聞くと5〜6回と言う方が多かった。
帰還困難区域に自宅がある方・ボランティアの方々に助けられ、家はきれいなっているので帰りたいと思う。しかし帰れない。自宅を見に行ったが2時間しかいられなかった。浪江町の真ん中は放射線量が高く入ることができない。ネズミやイノシシの被害も多く、泥棒にも入られた。

仮設住宅から復興住宅に移るとすべて自己負担となり、補助金は打ち切られる。
復興住宅は高層(5階建)の為、高齢者には困る。ここなら住民の顔が見えるが、復興住宅に行ったらばらばらになってしまうのではないかという不安もある。夜はエレベーターが止まってしまう。買物には2時間もかかる
復興住宅に移っても自宅は壊すことができない。家が無くなれば税金が高くなってしまう。

震災2年目の冬に訪れた岩手県遠野市の仮設住宅では、ボランティアや行政が入り集会所で住民同士の交流や、サークルなどが活発に行われていました。八方内仮設住宅では現在そうした行事は行われていないようです。住民も減り、個々ばらばらになり、残った少ない住民同士で励ましあって生きている。6年もたつとこうして大きく変化していってしまったようです。

交流会には10人ほどの高齢婦人が参加してくださいました。その中で一生懸命話してくださった方の言葉です。
「生きていくことは楽しい。生きていてよかった。百歳まで生きたい」「死にたいなど考えないほうが良い」「甘えてはいけない」

原発事故の為に生活していた住居を追われ、5回も転居をしなければならなかった。1年以内には仮設住宅から追い出され、どこかへ移らなければならない。復興住宅に行ったら、家賃は自己負担となり、補助金は打ち切られてしまう。ほとんどの方は単身で住んでいます。
これからいったいどのような生活が待っているのか。不安がいっぱいなはずです。
しかし、そんな状況の中でも明るく、前を向いた歩こうとしている老婦人の言葉に何も言えない私がいました。

報道ステーションで復興大臣の記者会見を見ました。
「自主避難者は自己責任。裁判でもなんでも起こせばよい」
これが日本の政治の悲しい現実です。














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2017年04月05日

これが復興か 福島の今 その1 ・・・南相馬市小高地区

3月10日夜、私は三島駅北口からマイクロバスに乗り込みました。浜松市、藤枝市、静岡市、伊豆市、御殿場市からの参加者10名を乗せたマイクロバスは、深夜の高速道路を 福島県に向かって走り続けました。

途中で仮眠をとり、福島市南相馬市小高地区に到着したのは早朝でした。

今日から2日間の「東日本大震災支援防災研修」がスタートしました。


2016年7月12日午前零時、福島県南相馬市の小高地区では、原発事故から5年4か月にわたって続いてきた政府による非難指示が解除されました。早朝にはJR常磐線の原の町―小高間の運転が再開されました。原発事故前に約1万3000人が暮らしていた町に再び住民が戻れるようになりました。


私たちが訪れた2017年3月11日早朝のJR小高駅です。丁度列車が到着しました。降りてきた人は10人ほど、全員小高地区住民ではなくボランティアか視察に訪れた人たちでした。


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駅前には放射線量計が今の放射線を測定し、表示しています。


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駅前道路です。信号は点滅していますが走っている車は全くいません。


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小高駅周辺の家々を見ても、震災の傷跡はほとんど見当たりません。しかし、住民はほとんどいません。


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どこへ行ってもあるコンビニさえ一軒も開いていません。ほかの商店も開いていません。


これでは帰還したくても叶わないと思いました。生活に必要なインフラが全く整備されていないところへ帰還しても生活はできないからでしょう。
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2016年03月11日

3・11毎日新聞 東日本大震災から五年・・・復興の遅れは深刻だ

東日本大震災から5年を迎えました。いまだに仮設住宅に暮らす多くの人々、進まぬ住宅建設。しかし莫大な国費を投入してかさ上げしても、そこに暮らしたいという住民はとても少ないという現実。
今日の毎日新聞は多くのページでこの現実を報道しています。

死者・行方不明者1万8455人と戦後最悪の自然災害になった東日本大震災は11日、発生から5年を迎えた。毎日新聞の調査では、被災者のプレハブ仮設住宅での暮らしが、2019年度まで4自治体で続く見通しであることが分かった。東京電力福島第1原発事故の影響が大きい福島県内を中心に、全員が退去できる時期を「未定」と回答した自治体も13あり、住宅復興の遅れは深刻だ。

http://mainichi.jp/articles/20160311/ddm/001/040/164000c
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